学芸の小部屋

2011年1月号

「南天の皿」

 明けましておめでとうございます。本年も、戸栗美術館をどうぞよろしくお願い申し上げます。
 さて、1月4日から3月27日までは、「鍋島展—献上のうつわ—」を開催しております。出展品の中から、2011年最初にご紹介するのは、縁起の良い南天のお皿です。このコーナーに鍋島焼が登場するのは久しぶりですね。


「色絵 南天文 皿」鍋島(17世紀後半)
口径:19.6cm
高さ:4.0cm
高台径:10.4cm

 見込には、実をつけた南天の枝が染付と緑・赤の上絵の具と金彩で描かれており、ところどころの葉に使われている濃い赤色が南天の紅葉の色をよく表現しています。南天は「難を転ずる」の語呂合わせから縁起の良い木として庭に植えられたり、葉に殺菌・防腐作用があることから赤飯などの料理を人に贈る時に一枝添えたり、果実は咳止めの薬としても知られています。縁起が良いとされる植物には薬用になるものが多いのです。

 1650年頃に始まり、以後200年にわたって鍋島家から徳川家へ献上され続けた鍋島焼は、スタイルがまだ定まっていなかった「初期鍋島」から、最高水準の品質となった「盛期鍋島」、享保の改革の倹約令によって色数が制限された「中期鍋島」、幕末の「後期鍋島」と変遷します。この皿のように片側に余白を残して写実的な植物文様を描くのは元禄時代(17世紀末〜18世紀初)の盛期鍋島によく見られる構図で、裏文様も盛期に定番となる「七宝結び」が描かれていますが、器形が浅めで、盛期鍋島では使われなくなる金彩も少し使われていることから、初期鍋島から盛期鍋島へ移り変わる過渡期のものと考えられます。ですから年代的には「17世紀後半」といっても、限りなく「17世紀末」に近い時代に作られたのではないでしょうか。本格的な盛期鍋島になると、いわゆる「木盃形(もくはいがた)」といわれる立ち上がりの深い皿の形・金彩は使わない・上絵の具は緑と赤と黄のみ、というスタイルが確立します。

 初期鍋島から盛期鍋島へ移り変わった頃の将軍は、5代目の徳川綱吉です。この将軍は「生類憐れみの令」ばかりが有名になってしまいましたが、「憐れみの令」以前は英明な君主との評価もあり、4代家綱の時代に緩んでいた徳川家の権威の立て直しを図って諸大名に対し厳しく接した人でもあります。一方、佐賀藩主は2代目の鍋島光茂。初期から盛期へ作風が変化した契機の一つといわれる、鍋島焼の品質をめぐる厳しい指令書が有田皿山代官へ出されたのが、この藩主の時代です。幕府権威を高めることに尽力した将軍と、将軍に献上するために作られた鍋島焼の質の向上が同時代であったのは、偶然 ではないでしょう。
 デザインの美しさもさることながら、鍋島焼は献上品ならではの政治的な時代背景を持ったやきものです。鍋島焼を通して見え隠れする、徳川家の事情と鍋島家の事情。そんなところまでご覧いただければ幸いです。

(松田)
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