学芸の小部屋

2015年12月号

「第9回:柿右衛門様式から古伊万里金襴手様式への展開」

 日毎に寒さが増してゆく今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 戸栗美術館では、現在「柿右衛門・古伊万里金襴手展」を開催しております。17世紀後半から18世紀前半にかけて、伊万里焼の海外輸出が盛んに行われた時代に展開した2つの様式の名品をご覧いただいております。
 さて、今月の学芸の小部屋では“柿右衛門様式”から“古伊万里金襴手様式”へ伊万里焼の様式が移り変わるに至った背景を解説すると共に、2様式の過渡期的作品を取り上げてご紹介致します。

 まず、柿右衛門・古伊万里金襴手様式が成立する以前、伊万里焼では1640年代より色絵技術が導入され、その製品は既に東南アジアへと輸出されていました。この頃、伊万里焼の更なる海外進出を後押しする出来事が起こります。それまで世界の陶磁器市場を独占していた中国において、1644年、明・清の王朝交代が起きました。反対勢力が中国各地で戦いを続けたために内乱は続き、中国南部に位置する景徳鎮窯や漳州窯などの生産地が被害を被ったことで、中国陶磁は海外輸出がほとんど出来ない状態となりました。また、反対勢力は中国船による海外貿易で利益を得ていたことから、清朝は内乱を治めることを目的に、1656年、海禁令を発し海外貿易を制限します。この出来事を機に、それまで中国陶磁に向けられていた西欧の磁器需要は伊万里焼へと向けられることとなりました。1659年、長崎・出島に出入りの許されていたオランダ東インド会社から5万個余りの注文を受けたのを始めとして、その後も毎年のように数万個の注文を受けており、1660年代頃には伊万里焼の西欧向け輸出が本格化したと考えられています。

 1670年代に入ると、西欧を中心とした海外輸出品の注文に応える中で、“柿右衛門様式”が成立。先述した中国陶磁の輸出制限により、西欧の市場に競争相手がいなかったことが功を奏し、延宝年間(1673-1681)頃に隆盛を迎えました。伊万里焼は中国陶磁の代替品として求められたため、本歌に劣らぬ高い品質が求められたと考えられます。そうした中で西欧の嗜好に合わせた“濁手素地(にごしできじ)”が開発され、乳白色の素地の美しさを生かした余白の多い構図、素地に映える明るい色絵顔料、繊細な筆致で中国風の意匠を多く描いた“柿右衛門様式”典型作品の数々が生み出され、大量に海を渡りました。(右/今展出展品no.15)

 しかし、この隆盛は長く続きません。1684年、中国清朝が発布した展海令により中国陶磁の海外輸出が再開され、数や価格の面で勝る中国製品との競争に陥ります。手間とコストのかかる濁手素地を用いた柿右衛門様式の高級品は求められなくなり、より量産に向いた新たな製品が生み出されました。染付素地に規則的に文様を配し、色絵と金彩をふんだんに用いて豪華に仕上げた古伊万里金襴手様式の製品は、西欧の王侯貴族たちによってこぞって買い求められ、室内装飾品として城や宮殿などに飾られました。(右/今展出展品no.39)


 また、この頃の日本は元禄年間(1688-1704)にあたり、安定した社会の中で豪商と呼ばれる裕福な商人が活躍していました。彼らの豪奢な趣味を満たしたのは、中国・明代嘉靖年間(1522-1566)に景徳鎮民窯で焼かれ、日本で“金襴手”と呼ばれた色絵磁器でした。この中国金襴手のリバイバルブームに乗り、伊万里焼の国内流通品は古伊万里金襴手様式へと変化します。染付・色絵・金彩を用いて中国風の吉祥文様などを細密に描き込んだ鉢類が数多く製造されており、それらは海外輸出用の大型品とは異なり、手に取って持つことのできる大きさで菓子鉢などとして用いられました。(右/今展には出展していません)

 伊万里焼が柿右衛門様式から古伊万里金襴手様式へと移行したもう1つの背景に、産地・有田を有する佐賀鍋島藩領内の藩直営窯で製造された鍋島焼との関わりがあります。主に将軍家への献上・贈答を目的として藩による厳しい管理下で製造されていた鍋島焼に関して、元禄6年(1693年)8月2日、2代藩主鍋島光茂から有田皿山代官に宛てた指令書『有田皿山代官江相渡手頭』が残されており、次のような記述がみられます。「脇山江上手之細工人於有之ハ、本細工所江可為相詰事付、前々ゟ詰来候者二而茂、下手之細工人ハ差置間敷事。」ここには、脇山(=有田民窯)の優秀な陶工を引き抜き、逆に下手な陶工は藩窯から追放するように、とあります。この他にも手頭には、有田民窯の製品に珍しい意匠があれば提出するように、など7つの条目がありました。こうした指令を受けたことを機に鍋島焼の作風はより洗練されたものとなり、元禄年間(1688-1704)にかけて最も質の高い最盛期を迎えたと考えられています。 一方、この手頭は、伊万里焼を製造していた有田民窯の立場からすると、大変困った内容でした。手頭の発布される以前に製造していた柿右衛門様式の製品では、濁手素地や繊細な絵付けなどに職人の高度な技術が必要となります。しかし、手頭によって腕の良い職人は藩窯へ引き抜かれてしまう訳ですから、柿右衛門様式の典型作品のような高級品の製造が困難となったことは想像に難くありません。こうした佐賀鍋島藩の献上品・鍋島焼を重視する政策が、伊万里焼の様式移行に影響を与えたことは疑いようのないことでしょう。

 最後に、今展出展品から「色絵 石畳蔓草文 皿」(伊万里 江戸時代(17世紀末~18世紀初))(右/今展出展品no.69)をご覧いただきましょう。見込は上下で異なる文様をあらわす片身替りの構図。左上部に大きく余白を残し、蔓草を染付の繊細な筆致で描いた表現は、柿右衛門様式作品と共通する上品さを感じさせる一方、下半分は石畳を敷き、それぞれに七宝・四方襷・雷文などを描き埋めており、古伊万里金襴手様式に多用される地文様の表現と通じるものがあります。さらに外反させた縁にめぐる唐花文は鍋島焼に類似する意匠がみられることから、本作は柿右衛門様式・古伊万里金襴手様式・鍋島焼の要素が混在する、過渡期的作品と言えます。

 現在開催中の「柿右衛門・古伊万里金襴手展」では、約70点の作品を“柿右衛門様式”(第1展示室)と“古伊万里金襴手様式”(第2展示室)に分類し、それぞれの特徴をご紹介しています。それらの特徴は、上記にあげた中国陶磁との関わりや、国内外の需要者の嗜好の変化、佐賀鍋島藩の影響などが複雑に絡み合う中で生まれ、少しずつ変化していったものであることがわかります。伊万里焼は創始から約100年をかけて、様式を大きく変化させてきましたが、その背景や、上記にあげたような様式間の過渡期的作品をみると、次に進むべき道、新たな伊万里焼の姿を模索する陶工の創意工夫が垣間見えてくるように思います。
 今展は12月23日(水・祝)まで開催。皆様のご来館を心よりお待ちしております。 

(竹田)

【参考文献】
大橋康二『海を渡った古伊万里 セラミックロード』青幻社 2011/大橋康二『将軍と鍋島・柿右衛門』雄山閣 2007/矢部良明ほか『角川日本陶磁大辞典』角川書店 2002

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