学芸の小部屋

2016年1月号

「第10回:鍋島家と鍋島焼」

 明けましておめでとうございます。本年も戸栗美術館を宜しくお願い申し上げます。

 さて、当館では1月7日から『鍋島焼展』を開催予定でございます。鍋島焼とは、佐賀鍋島藩が徳川将軍家への献上を目的に誂えた、特殊なやきもの。同じ佐賀鍋島領内で生産された伊万里焼とは一線を画し、一般に流通することはありませんでした。現在の佐賀県伊万里市・大川内山(おおかわちやま)に藩の直営窯が築かれ、佐賀鍋島藩ひいては徳川将軍家の意向をも反映しながら、意匠を変化させていきました。その変化はすでに様々に論考がなされていますので、ここでは代々佐賀鍋島藩主を継いだ鍋島家で使用されたと考えられる鍋島焼をご紹介いたします。

 鍋島家が居城とした佐賀城は、平成19年以降断続的に発掘調査が行われています。平成26年の佐賀城東堀の調査では、多数の瓦とともに少数ながら陶磁器が出土しており、鍋島焼の磁器片も発掘されました。しかし、他の消費地遺跡と比べると未だ出土量が少ないのが現状です。また参勤交代の制度により滞在が義務づけられていた江戸では、佐賀鍋島藩上屋敷があったとされる現在の東京都千代田区・日比谷公園内の発掘調査が行われておらず、実態は明らかとなっていません。今後の発掘調査での新しい発見が期待されます。そのような中、鍋島家との関係性を伺わせる興味深い事例が発見されたのが大阪です。

 江戸時代の大坂は「天下の台所」とも呼ばれ、商業の中心地でした。幕府や大名、旗本、社寺、諸藩の重臣などが設置した蔵屋敷が立ち並び、年貢米や自己の領地の特産物の販売が行われていました。佐賀鍋島藩も例外ではなく、現在の大阪府北区・西天満、大阪高等裁判所の所在する地に蔵屋敷を構えていました。「明暦元年大坂三郷町絵図」には、天満に「鍋島信濃守」の屋敷が描かれており、明暦元年(1655)までには佐賀鍋島藩の蔵屋敷が設置されていたことが伺われます。蔵屋敷は、その後明治4年(1871)に退去するまで、火災による延焼と再建を繰り返しながら同地に在り続けました。
 この佐賀鍋島藩の蔵屋敷跡は平成22・23年に大阪市教育委員会による発掘調査が行われ、報告書によれば338点もの鍋島焼が出土しています。出土品のうち302点は盛期のものであり、それらは17世紀後半~18世紀中葉の遺構から発掘されました。とくに享保9年(1724)の「妙知焼」と呼ばれる徳川期の大坂で起こった最大の火災に伴う焼土整理遺構からの出土が顕著であると言います。また中・後期の鍋島焼も出土してはいるものの、その数は36点と盛期に比して少ない割合となっています。
 報告書では、国元と江戸を結ぶ通過点である大坂の蔵屋敷で多量の鍋島焼が出土した背景について、「①贈遣用の鍋島焼が蔵屋敷にストックされていた可能性、②参勤交代の際に逗留する藩主などが使用するため蔵屋敷に備えられていた可能性」の2つを挙げ、「補修痕を有する資料が含まれること」や「器に使用痕が認められること」などから、②に属する資料が多いと指摘しています。また、中・後期の鍋島焼が少ないことについては、文献史料から18世紀後葉~19世紀初頭にかけて藩が経済的に困窮しており、「銀主(=貸主/筆者註)への面会や対応を避けるために、参勤交代に赴く藩主が故意に大坂を避ける」ことまでしていたようで、「藩主の逗留が少ない時期に鍋島焼が少なく、かつ並行する磁器の鍋島焼がほとんど搬入されていないことは、蔵屋敷で出土する鍋島焼が藩主のための器であった」ことを推測しています。以上の大坂・蔵屋敷の事例から、鍋島焼の献上・贈答用としての性格だけでなく、藩主の“自家用”としての性格も見出されるようになりました。

さらに江戸時代の例ではありませんが、東京でも鍋島家に縁のあったと考えられる鍋島焼が発掘されています。

 現在の東京都千代田区、永田町周辺は武蔵野台地の東縁部にあたり、旧石器から近世にいたるまで、さまざまな時代の生活の痕跡が残されていると言われています。このような台地の一角に、明治3年(1870)以降、鍋島公爵の邸宅が存在しました。同地は平成12年に東京都教育委員会ならびに千代田区教育委員会によって発掘調査が行われています。鍋島焼が出土した遺構は、「一見して優品と言えるものを多く含」み、二次焼成を受けている出土品が多いことから、鍋島家が保有していたものが、大正14年(1925)の関東大震災により罹災し、廃棄されたと考えられています。出土した鍋島焼は青海波の背景に扇形の窓を開け、草花文を配したもので、裏文様の羊歯文から後期鍋島に分類されます。同意匠・大きさ違いで3点が出土しました。
 これらの鍋島焼が廃棄されたときには、すでに鍋島藩窯での製造は終了しており、江戸から明治、大正へと時代が変化していました。しかし江戸時代に焼造された鍋島焼が、大正年間に至っても鍋島家に所有されていたことを示すもので、両者の強い結びつきを感じさせます。

 『鍋島焼展』では、鍋島家が藩の威信をかけて誂えた鍋島焼の名品約70点を展示いたします。皆様のご来館を心よりお待ち申し上げております。 

(黒沢)

【参考文献】
東京都生涯学習文化財団東京都埋蔵文化財センター『永田町二丁目遺跡』同2003/大阪市博物館協会大阪文化財研究所編『佐賀藩蔵屋敷跡発掘調査報告』同2012/佐賀市教育委員会「佐賀城跡 佐賀県佐賀城公園整備事業に伴う埋蔵文化財発掘調査 発掘調査現地説明会資料」同2014.9.20

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