学芸の小部屋

2016年3月号

「第12回」

 ようやく日差しが暖かく感じられるようになった今日この頃、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

 早いもので、戸栗美術館で開催中の『鍋島焼展』は、会期が残すところ20日余りとなりました。
 今回展示している鍋島焼とは、佐賀鍋島藩が徳川将軍家への献上を目的に創出した特別なやきもの。焼造にあたっては、秘密保持のために磁器生産の中心地・有田から敢えて遠ざけられ、伊万里・大川内山(おおかわちやま)に藩窯が築かれました。今月の学芸の小部屋では、江戸時代の大川内山の様子を、やきものにあらわされた意匠と文献史料等を手掛かりに探っていきたいと思います。

〇大川内山の位置と地形
 大川内山、現在の佐賀県伊万里市大川内町は、伊万里駅から南へ約6kmの地点に所在します。南は青螺山(せいらざん)、南西に牧ノ山、西に腰岳と、周囲を山に囲まれ、かつ北へ向かって流れる伊万里川と権現川に挟まれており、秘密保持には誂え向きの地形と言えるでしょう(右図)。





 〇「染付 鍋島藩窯絵図 皿」にあらわされた大川内山
 江戸時代の大川内山の様子を描いたものに、江戸後期の作と推測されている「鍋島藩窯絵図染付大皿」(佐賀県立博物館・美術館蔵)があります。当館ではこちらを複製した「染付 鍋島藩窯絵図 皿」(右写真)を所蔵しており、『鍋島焼展』中は当館2階ロビーにてご覧いただけます。
 まず目を引くのは、上部3分の1に描かれた青螺山と手前の伊万里川。その間に100軒以上が軒を連ね、中央上部に石垣で囲まれた御細工場(おさいくば)と藩役宅、左には登り窯が見えます。


〇御細工場
 細工とは、素地をやきもののかたちに成形する作業のことで、その作業を行う職人を細工人、場所を細工場と呼んでいます。藩窯に勤めた細工人の人数は、大川内山に所在する日峯大明神の境内の「安政七年庚申(1860)三月吉辰日」に再建された石祠(以下『石祠』とする)から知ることができます。この『石祠』の台石には藩窯の職人たちの名が刻まれており、それによれば当時の細工人は24名、下働き7名を加えて計31名とあります。
 藩窯の細工人たちは、有田から集められた特に腕の良い職人でした。元禄6年(1693)に2代佐賀鍋島藩主・鍋島光茂から有田皿山代官へと出された指令書『有田皿山代官江相渡手頭』(以下『手頭』)には、「有田に優秀な陶工がいたら大川内山へ勤めさせるように。前々から大川内山に勤めている者であっても、技術の劣る者は辞めさせるように。」とあります。技術がものを言う、非常にシビアな世界であったようです。
 ここで働く職人たちは、関所の内側に居住地が定められ、出入りは厳しく管理されていたといいます。一方で、名字帯刀が許され、毎年の報酬に加え、長年勤続した場合や出来の良いものを作った場合には、臨時の賞与があったと考えられています。藩窯の職人になるということは制限もありましたが、名誉なことであったと言えるでしょう。
 先の『石祠』には細工人のほかにも、「お手伝い窯焼き」といって窯入れや窯出しなどを担当する職人や、大工、鍛冶、石工といった職人の名が記されており、様々な職業の人々が大川内山に集まっていたことが窺えます。

 〇藩役宅
 藩役宅は、佐賀鍋島藩の役人が詰める屋敷です。
藩窯の監督を行っていたのは、本藩直属の「大川内御陶器方(おおかわちごとうきかた)」という機関であったと考えられています。この機関には複数名の役人が配属され、先の『石祠』には「御陶器方役」2名、「郡目附」1名、「詰役」2名分の名が記されています。
 彼らの役割のひとつとして、鍋島焼の品質・納期の管理がありました。先の『手頭』には、「近頃やきものの出来が悪く、また納期も遅れているので今後はそのようなことがないように」と藩主が目附を厳しく叱責する内容が残されています。また、『手頭』では「たとえ失敗品であっても散らかしておいてはならず、割り捨てるように」とありますが、実際、発掘調査では鍋島焼の破片は登り窯跡付近ではなく藩役宅跡周辺で出土しており、藩役人の目の行き届く範囲で処分されていたものと推測されます。「大川内御陶器方」が本藩の指令のもと、厳しく藩窯の監督にあたったことが窺えます。

 〇登り窯
 登り窯は、やきものの焼成を行う重要なもの。窯跡は昭和47年(1972)と同50年(1975)に本体の発掘調査が行われ、幕末の廃窯時の全長が137m、窯室は27~30室であったと推測されました。これは、高級磁器を焼いた窯としては世界最大級とも言われます。ただし鍋島焼を焼成していたのはそのうち3室で、その他の窯室は藩窯の製品以外を焼造するのに用いられたと考えられています。それにしても、前山博氏の研究によれば、この登り窯で焼かれた鍋島焼は幕末の記録で年間約4000個。うち2000個以上という膨大な量が徳川将軍家や江戸幕府高官へ献上されたといいます。佐賀鍋島藩がいかに徳川将軍家への献上を重要視していたかが推し測られます。

 以上のように「染付 鍋島藩窯絵図 皿」や文献史料等を手掛かりに大川内山を見ていくと、大規模な窯と優秀な職人たちなど、鍋島焼の焼造にあたっての採算度外視ぶりが垣間見えます。また、ここに住まう人々の暮らしは藩による厳しい管理下に置かれていました。このような環境があったからこそ、緊張感すら漂う鍋島焼の名品の数々が生み出されたのでしょう。3月21日までの『鍋島焼展』では、職人たちが渾身の思いを込めて生み出した鍋島焼、約70点をご堪能いただけます。皆様のご来館を心よりお待ち申し上げております。

(黒沢)

【参考文献】
前山博『鍋島藩御用陶器の献上・贈与について』同1992/鍋島藩窯研究会『鍋島藩窯』同2002/伊万里市史編さん委員会『伊万里市史』伊万里市2006

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