学芸の小部屋

2017年1月号

「第10回:元代の青花磁器における松竹梅」

 みなさま、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 30周年に向けて館内整備のため、現在戸栗美術館は休館中です。次回展は4月1日(土)より『開館30周年記念特別展 柿右衛門展』を開催いたします。当館所蔵の柿右衛門様式の作品に加え、有田の柿右衛門窯より11代~15代(当代)柿右衛門氏の作品をお借りし、展示する特別展です。当代15代柿右衛門氏の新作のお披露目もございますので、どうぞご期待ください。


 さて、今月の学芸の小部屋では、新年にふさわしい松竹梅の描かれた中国陶磁「青花 松竹梅文 壺」(画像① 高22.2㎝ 口径16.7㎝ 底径14.6㎝)をご紹介いたします。
 松竹梅はおめでたい組合せとしてよく知られていますが、もともとは中国において厳しい環境の中でもくじけない気高い人格を象徴するものとして、詩や絵画の題材に好まれたモチーフでした。それは、松と竹は厳冬においても常緑を保ち、梅は春に先駆けて花を咲かせることにちなみます。絵画や詩において松竹梅の組み合わせは南宋時代頃には定着し、文人の心の友として「歳寒三友」と称されるようになったと考えられています(※1)。
 陶磁器では、つづく元代になって初めて松竹梅文が登場します(図①)。元代の青花磁器(以下、元青花と呼びます)には「蓮池水禽図」「魚藻図」「草虫図」など江南で流行した絵画から画題を採用しているものが少なくありませんが、江南の文人画家たちは「墨竹」「墨梅」なども盛んに手がけており、松竹梅文も絵画からの影響で描かれ始めたのかもしれません。
 松竹梅について、絵画の表現を採り入れた、と断言できるほど絵画と元青花の表現が近似している例を探し当てることはできていませんが、扇形に開く松葉1本1本の先端を尖るように中心から外に向かって撥ねさせている点や、松樹の樹皮の緻密な描きこみ、松樹と梅樹との質感・枝ぶりの描き分け、筆の形を利用した竹の節や葉の表現など、絵画に通じる筆技、写実性を見て取ることができます(図②)。また、本作の梅樹と竹の間には三日月が描かれており、その点でも絵画や詩に通じる抒情性を感じ取ることができます。
 つづく明代には、松竹梅文は青花磁器の文様としてよりポピュラーになっていきますが、表現は意匠化されていきます。文様に托された意味合いも、高潔な人格を投影した儒教的要素よりも、常緑の姿から長寿や生命力の強さという吉祥性が強くなり、陶磁器という工芸品に適した形へと変化していっています。
 元青花に見られる松竹梅文は、完全に文様化されておらず、絵画と陶磁器との狭間にある独特な魅力をそなえているといえるでしょう。




 ところで、今回の学芸の小部屋執筆にあたり、本作を再調査したところ、肩部の宝相華文の部分に、素地が依れたような皺が入っているのを見つけました(図③)。これは成形の際に型に当てはめた痕跡とみられます。

 そこで最後に本作がどのように成形されたのか考えてみたいと思います。壺の内部をのぞいてみると、内底には丸く亀裂が入り、頸部の付け根には泥漿が付着、胴部中央にも横筋の亀裂と泥漿がついており(画像④)、底部と胴部、頸部の3カ所で接胎(胴継ぎ)されていることが分かります。接胎とは、器体をいくつかの部位に分けて作り、それを接合させて成形する方法のこと。それぞれの部位を轆轤挽きで作る場合は「継ぎ挽き」、胴部で接合する場合は「胴継ぎ(胴接ぎ)」とも言います(※2)。元青花において接胎技法が用いられているのは、粘性の低い胎土原料では轆轤で大型品を挽き上げられないためであり、また底部や頸部までも接胎するのは轆轤成形時に「水切れ」と呼ばれる傷が出来るのを予防するためであると言われています(※3)。
 轆轤挽きと接胎だけでも器物を成形することができますが、わざわざ型(※4)にも当てている目的としては、(1)同器種の製品の規格を整えるため、(2)轆轤挽きでは調節しづらい各部位の接合部の径の大きさをぴっちり合わせ、接胎させやすくするためなどが考えられます。
 一方で、接胎と型を組み合わせた成形方法としては、轆轤挽きを行わず、最初から型(※5)で成形した方が、工程の単純化が図れ、また接合の正確さも保証されることから、合理的なのではないかとの指摘もあります。
 確かにこれは非常に頷ける意見なのですが、元青花の陶片の調査によると、一つの器物の同じ高さの部位でも、場所によって器壁の厚みに違いがあるとのこと(※6)。内型と外型で素地を挟み込んで成形する場合には、器壁の厚みは均一になりますので、やはり轆轤挽きのあとに型にあて、器形を修正していると見るべきなのかもしれません。

 なお、轆轤挽きの後に型を当てる場合、轆轤挽きによってある程度形は作られていることから、型によって素地が無理に引っ張られることは少なく、器表に依り皺ができるようなことは滅多にないはずです。本作においては、頸部の付け根に唐草文の細い文様帯があり、これがやや盛り上がった凸帯となっています。もともとなだらかだった表面に型を当てて強制的にこの凸帯を作ったのだとすると、肩部の素地が依れることもあり得るといえるでしょう。

 完成されたうつわから成形方法を考えることは難しく、断定的に結論づけることができないことも多々ありますが、陶工の苦労や技術の高さに思いをはせるのも楽しいものですね。

 本稿執筆にあたり、専修大学文学部准教授の高島裕之氏に元青花の接胎についてご教示賜りました。記してお礼を申し上げます。

(戸栗美術館 学芸員・アドバイザー 木野香代子)



※1宮崎法子「シンポジウム 松竹梅のメッセージ—藝術と生活と山川草木松竹梅の美術 松竹梅の美術」『Aube : 比較藝術学 』京都造形芸術大学比較藝術学研究センター 2006
※学芸の小部屋2016年8月号参照
※3水上和則「青花瓷生産黎明期の景徳鎮窯業」 『専修人文論集』97 専修大学学会 2015-11
※4この際の「型」とは外型のみのものが想定されます。
※5この際の「型」とは外型と内型を組み合わせた合わせ型が想定されます。外型のみで粘土塊を押し付けて成形していく方法もあり得ますが、型成形を行う合理性に欠けます。
※6 高島裕之「元明青花白瓷罐の成形と施釉について」『亜州古陶磁研究Ⅳ』亜州古陶瓷学会2009
 なお、高島氏は藍浦著『景徳鎮陶録』(清代・嘉慶20/1815年)に示される製作工程を参照し、「円器」(丸い器)、『元青花研究—景徳鎮元青花国際学術研討会論文集』(黄雲鵬主編 上海辞書 2006)を参照した上で、壺や瓶などの袋物の場合、元青花においても「做坯」(水挽き)ののちに「印坯」(型押し)を行ったとの仮説のもと論を進められており、本論で考えた製作工程と一致しています。ただし、景徳鎮窯で器体胴部での接胎が行われたのは南宋末~明代のことであり、清代の遺品には基本的に接胎痕はありません。したがって、明代以前と清代以降では製作工程にも変化があったものと考えられ、『景徳鎮陶録』にある製作工程が元青花に当てはまるかどうかは分かりません。また高島氏は陶片資料における接胎部分の断面の様子が元青花と明代初期の青花磁器では異なっていることも指摘されていることから、元代と明代の間でも製作工程・成形方法に違いがあった可能性もあります。
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