学芸の小部屋

2018年10月号
「第7回:青磁 香炉」
(作品公開期間:2018年10月5日~10月31日)

 日毎に秋も深まってきました。皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
 戸栗美術館では10月5日(金)より『鍋島と古九谷―意匠の系譜―展』(~12月22日)を開催いたします。佐賀鍋島藩が徳川将軍家への献上などを目的に創出した鍋島焼。有田から集められた優秀な職人たちの卓越した技術によって、採算度外視で製作された格調高いやきものです。この鍋島焼に用いられている成形や絵付けの技術、意匠は17世紀中期の有田に始まったものが多くみられます。今展では、鍋島焼と古九谷様式をはじめとした17世紀中期の伊万里焼の関係性に注目し、伊万里焼から鍋島焼へ受け継がれた点や相違点を探ります。
 鍋島焼といえば、精緻な色絵磁器に代表されますが、青磁の優品も多数残されています。今回の学芸の小部屋では、そんな鍋島青磁にも匹敵する端正な青磁の作品、板谷波山作「青磁 香炉」をご紹介いたします。


 板谷波山(1872~1963)は明治から昭和にかけて活躍した陶芸家です。茨城県下館(現・筑西市)の商家の生まれでしたが、幼い頃からやきものに関心を持ち、自ら陶芸の道を志しました。東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科を卒業後、就職先であった石川県でやきものの製法を学び、明治36年(1903)、31歳の時に東京へ戻り、陶芸家として独立することとなります。その後、約60年に渡る陶芸家人生の中で、昭和9年(1934)に帝室技芸員となり、昭和28年(1953)には陶芸家としては初の文化勲章を受章。没後、平成に入ってからも作品が重要文化財に指定されるなど、近代陶芸を代表する人物として高く評価され続けています。
 波山の作品というと、柔らかな色彩で典雅な文様をあらわした葆光彩磁(ほこうさいじ)が有名です。しかし、葆光彩磁は明治末~昭和初頭にかけてが制作の中心。その後も制作自体は続くものの、主流の作風ではなくなっていきます。そして、ちょうど葆光彩磁と入れ替わるように、大正後期から増えはじめ、昭和に制作の中心となるのが、本作のような単色釉の作品です。

 本作は袴腰(はかまごし)の青磁香炉。中国の青銅器、鬲(れき)の形を祖としたと言われる器形で、胴の形が袴をはいた姿のように見えることから、日本では袴腰と呼ばれています。張りのある胴部から三本の脚が伸び、まっすぐに立ち上がった太い頸部からは水平に口縁部が広がり、全体にメリハリの利いた造形です。大きな作品ではありませんが、その整った姿は大変堂々としています。澄んだ青緑色の青磁釉も、釉の溜まった肩部は色濃く、釉の薄い脚の凸線や口縁は白く浮かびあがり、器形のプロポーションを強調しているかのよう。造形、釉調ともに隙がなく、完璧主義の波山らしい作品です。
 本作は、中国・南宋時代に龍泉窯で焼かれた、砧青磁を元とした作品と考えられます。波山のスケッチ集である『器物図集 巻三』(※1)には、帝室博物館(現・東京国立博物館)に展示されていた袴腰香炉の詳細なスケッチがあり、さらに波山の釉薬帳にも「砧手」の釉薬試験が行われていた様子が残されているためです。

 大正後期から徐々に増え始めた波山の単色釉の作品は、砧青磁の他に、貫入の入った南宋官窯の青磁、七官青磁、清朝の辰砂磁や茶葉末磁などの釉薬に加え、器形も玉壺春瓶や建窯の天目茶碗、磁州窯の梅瓶といった中国陶磁に倣ったものです。
 こうした中国陶磁の多くは昔から日本で珍重されてきたものですが、波山の作風が多彩色の文様を主体としたものから、単色釉の作品へ移行する頃にも、再び流行していました。
 明治末期に中国で新たな出土陶磁器の発見や皇室伝世の陶磁器の流出が相次ぐと、欧米ではその研究や収集が過熱。その煽りを受けて、日本でも中国陶磁の研究と収集が高まりをみせ、大陸から多くの作品がもたらされました。大正から昭和初頭にかけて、国内でも中国陶磁の研究者やコレクターが登場。それに伴い、展覧会や市場取引、出版も盛んになり、ひとつの大きな流行となります。
 こうした時代の中で、波山は大正3年(1914)に発足した「陶磁器研究会」に参加します。陶磁器に関心を持つ東京帝国大学(現・東京大学)の大河内正敏や奥田誠一を中心に、科学者やコレクター、陶磁研究者らが参加した大正期最も有力な研究会です。この研究会では、定期的な作品実見や研究発表の他、コレクターたちの所蔵品を集めた展覧会も主催していました。波山は、こうした場で最新の陶磁器研究に触れ、当時の第一級の研究者やコレクターたちとの交流を持っていたとみえます。
 この頃の中国陶磁コレクターと言えば、三菱財閥4代目総帥の岩崎小彌太と建築家で実業家の横川民輔が挙げられます。『器物図集 巻三』の中には「岩崎家別邸所見」と書き込みのある青磁や白磁のスケッチがあり、波山は岩崎家のコレクションを実見する機会を得ていました。さらに、状況は不明ですが、大正12年(1923)7月2日に横川民輔所蔵の「宋窯色釉」の瓶のスケッチも残しています。上京以来、幾度も帝室博物館に通い、展示品を描いている波山でしたが、博物館以外にこうした著名な個人コレクターたちの所蔵する中国陶磁も見ていました。

 また、波山が描いた中国陶磁は、彼が実見したものだけではありません。大正後期から昭和初期にかけて描かれたと推定されている『陶器図集 巻五』に残されているのは、図録からの模写です。たとえば、大英博物館東洋部長で東洋陶磁器学者のホブソンや、フランス人画家アンリ・リビエールがまとめた東洋陶磁器の図録からの写しが確認されています。これらの本は、波山だけでなく、当時の古陶磁愛好家たちはこぞって目にしたもの。こうした海外の図録に触発され、昭和に入ると、日本でも写真図版の豪華な図録が相次いで出版されるようになるなど、大きな影響を与えました。
 このように実物にしても、写真図版にしても、人々が中国陶磁を目にする機会は、大正以降大幅に増え、それまで知られていなかった作品も次々と世に紹介されていきました。その中で、波山は自ら積極的にその機会を享受し、観察と研究を重ねています。

 こうした波山の活動に一致するように、『器物図集 巻三』全体の内容にも変化が認められます。それまで多彩色で描かれた図案が中心だったものが、大正中期以降は中国陶磁をはじめとした古陶磁の輪郭を墨のみで描写したものが中心になると言い、波山の関心が意匠から器形に移ったことが窺えます。
 この関心の変化には、波山の助手を務めた現田市松の成形技術の熟達により、理想とする造形が可能になっていたことが指摘されています。そして、うつわの造形美を際立たせるには、彩色文様よりも、単色釉の方が相応しく、また、時を同じくして、中国陶磁が流行したことにより、波山は大正後期から昭和にかけて中国陶磁を参考にした単色釉の作品を制作したのではないでしょうか。
 それらの作品には、釉薬や器形を中国陶磁に倣ったもの、本歌に彫文様による独自の装飾を加えたものなど様々な作例が存在していますが、そのどれもが中国陶磁のエッセンスをものにし、新たな波山の作品として昇華されています。その中で、器形、釉薬ともに古陶磁に忠実で、青磁の最良作とされてきた砧青磁に肉薄した本作は、波山の中国陶磁への深い研究の成果があらわれています。
 落ち着いた佇まいの中に波山の熱心な古典研究と近代における中国陶磁の隆盛を見ることができる板谷波山作「青磁 香炉」の展示は10月31日までです。『鍋島と古九谷―意匠の系譜―展』と併せて是非ご覧ください。

(青砥)


※1 『器物図集 巻三』:波山のスケッチ集のひとつ。明治33年から昭和31年までの575枚からなる。年代が前後している例もあるが、概ね波山によって年代順に並べられており、創作図案や西欧陶磁器、東洋陶磁器が描かれている。この他に、図録を模写した『陶器図集 巻五』や植物や生物を写生した『花果粉本』など性格の異なる複数のスケッチ集が存在する。

【参考文献】
東京国立近代美術館 『板谷波山―珠玉の陶芸』 朝日新聞社 1995
荒川正明 「板谷波山(1)~(32)」(『陶説』486~565 日本陶磁協会 1993-2000)
板谷波山 『板谷波山素描集 第1巻(器物図集 其の1)』 出光美術館 2001
板谷波山 『板谷波山素描集 第2巻(器物図集 其の2)』 出光美術館 2001
板谷波山 『板谷波山素描集 第3巻(器物図集 其の3)』 出光美術館 2002
荒川正明 「板谷波山の古典学習―東洋美術を中心として」(『出光美術館研究紀要(8)』 出光美術館 2002)
木田拓也 「大河内正敏と奥田誠一 陶磁器研究会/彩壺会/東洋陶磁研究所:大正期を中心に」(『東洋陶磁 第42号』 東洋陶磁学会 2013)
『没後50年 板谷波山展』 毎日新聞社 2013
木田拓也 「板谷波山がめざしたもの」(『出光美術館館報 第167号』 出光美術館 2014)

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