学芸の小部屋

2019年7月号
「第4回:染付 波兎文 皿」(展示期間:7月2日~7月31日)

 梅雨空の続く今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

当館では明日7月2日(火)から夏季展覧会とし、『青のある暮らし―江戸を染める伊万里焼―』を開催いたします。太田記念美術館(渋谷区神宮前1-10-10)、東急百貨店本店(渋谷区道玄坂2-24-1)との連携企画の今展は、江戸の生活を鮮やかに彩った「青」に着目し、各施設で陶磁器や浮世絵などから江戸の人々の暮らしをご紹介。清涼感溢れる3施設それぞれの“青色”をご堪能いただき、現代の暑い夏を乗り切っていただければ幸いです。

 会期中、戸栗美術館の展示室は青色のやきもので染め上げられます。当館の所蔵品の主体である伊万里焼の“青色”と言えば染付(そめつけ)。白地に青色で下絵付けの施された磁器で、酸化コバルトを発色の主成分とする呉須(ごす)という絵具が用いられています。17世紀初頭に日本初の国産磁器として誕生した伊万里焼では初期から登場する絵付け技法であり、17世紀中期に色絵と呼ばれる色とりどりの絵具での装飾が開始された後も並行して作られ続けました。18世紀以降、伊万里焼が町民層にまで広がりはじめると、主力として量産されるようになります。

 今回の小部屋では、伊万里焼染付の中から「染付 波兎文 皿」をご紹介いたします。本作が作られたのは17世紀中期のこと。色絵磁器の登場のみならず、素地はより薄く、白くなり、絵付けについても肥瘦のない輪郭線や濃(だみ/塗り潰し)の技法が完成し、染付の青色が鮮やかになるなど、様々な面で技術革新の生じた時代です。本作も、轆轤(ろくろ)成形後に丹念に削り上げることで手取りは軽く、絵付けも丁寧。5枚で伝世していますが、大きさや意匠が整った規格性も高い作例と言えます。当時の伊万里焼は上流階級のみが手にできる高級品であり、茶懐石等で向付(むこうづけ)などとして用いられたものでしょう。



 それぞれ見込に設けられた二重圏線による窓内、2羽の兎が波間に飛び跳ね、その頭上には雲間から満月が輝いています。口縁付近は桧垣に花文がめぐる構図。口縁部には濃淡の濃(だみ/塗り潰しの意)が施され、磁器ならではの白い磁肌は、文様モチーフに関しては兎と月のみとしています。兎の周囲は広い面積を使って山形状の波が表現されており、白抜きの兎と月とを合わせ、波・兎・月の三者が本作の主題として浮かび上がってきます。

 “波に兎”の取り合わせは、伊万里焼の定番の主題であり、当初人気の高かったとみえる“月に兎”の組み合わせに加えて17世紀半ば頃より作例が増加。初期の伊万里焼が影響を受けていた中国磁器を含む中国工芸品の意匠には見られず、日本独自の意匠とされます。

 日本における波兎のイメージの源流として最も古いものに、『古事記』に記された出雲神話のひとつ「因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)」が挙げられます。稲羽のヤカミヒメに求婚しようと、八十神(やそがみ)とその兄弟・大国主神(おおくにぬしのかみ)が稲羽に向かっていた道中のお話。とある兎が、おきの島から出雲へ渡るためにワニの一族に数比べをしようと欺いてその背を渡り、利用されたことに怒ったワニに皮を剥がれてしまいました。さらに意地の悪い八十神に騙されて、潮風に身体をさらしてしまって泣いていたところに、大国主神が通りかかり、清水で身を洗い、ガマの花を敷いて寝ているように教えられます。回復した兎は、八十神ではなく大国主神が稲羽のヤカミヒメを得るだろうと告げ、その通りになりました。この神話の中で、ワニの背を渡る兎の場面から“波”と“兎”のモチーフが結びついたとされます。

 時代が下り、室町時代に入ると、謡曲『竹生島』が成立します。これは、麗らかな春のある日、延喜帝の廷臣が、琵琶湖に浮かぶ竹生島の弁才天の社に参詣した時のお話。廷臣は湖畔で出会った老漁師と若い女性の釣舟に便乗させてもらい、竹生島を目指しました。島が見えてくると、次のようにうたわれます。「緑樹影沈んで、魚木に登る気色あり、月海上に浮んでは、兎も波を走るか、面白の浦の景色や」、つまり、水面に島の緑樹が映り込み、その樹木に魚が登っていくかのような様子である、月が海上に浮かんでいる時には、(月に住むという)兎も波の上を走っていくように見えるだろうか、おもしろい浦の景色であることよ、とのどかな島の景色をあらわしているのです。その後、島に到着した廷臣が宝物を拝見していると、光り輝く弁才天、天女があらわれます。実は船で同乗した女性でありました。また、老漁師も本性は龍神で、廷臣の前に姿をあらわします。このように、弁才天と龍神の示現を、穏やかな春を迎えている竹生島を舞台に展開した一曲『竹生島』。江戸前期に謡曲が流行すると盛んに演じられるようになったと言われ、人気の演目であったことがうかがえます。

 本作が作られた時代と同時期にあたる着物関連の資料にも、波に兎の意匠があらわれます。尾形光琳・乾山兄弟の生家である京都の呉服商・雁金屋に伝わった注文帳「雁金屋衣装図案帳」や、寛文年間刊行の小袖のデザインブック『御ひいなかた』(下図)には、月・兎・波のモチーフが大胆に散らされた図案が残ります。このように着物のデザインに取り入れられるほどに、江戸時代の人々にとって、波に兎の組み合わせは浸透していたのでしょう。



 波に兎の意匠は蔵の側面や火消し装束などにもあらわされることから、火伏の意味もあるとされますが、本作においては、月・波・兎という3要素が明確に表現されている点、飛び跳ねる兎が複数である点、同時代に謡曲が流行している点などから、『竹生島』に取材したものであると言えるでしょう。本作を使用したであろう江戸時代前期の上流階級の人々も、うつわにあらわされた月・波・兎の意匠を一見してその関係性を理解し、謡曲を思い起こすに十分足る素養があったと考えられます。

 本作の波兎は、白と青という2色のみの表現ではありますが、謡曲を通じて、そこには緑豊かな美しい日本の春の景色が見えてきます。白と青を入り口に、情緒性豊かな江戸の人々の暮らしをご覧いただければ幸甚に存じます。

(黒沢)


【参考文献】
本居豊頴『国文註釈全書 第3編』皇学書院1913
『骨董楽しむ13 絵皿文様づくし』別冊太陽1996
早坂優子『日本・中国の文様事典』視覚デザイン研究所2000
村上湛『すぐわかる能の見どころ 物語と鑑賞139曲』東京美術2007
大阪市立美術館・毎日新聞社編『うた・ものがたりのデザイン 日本工芸にみる「優雅」の伝統 特別展』大阪市立美術館2014

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