学芸の小部屋

2020年11月号
「第8回:色絵 五艘船文 鉢」

 少しずつ木々が色づき始めた今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。今月は開催中の『戸栗美術館名品展Ⅰ―伊万里・鍋島―』より、「色絵 五艘船文 鉢」をご紹介いたします。

 

 本作は、古伊万里金襴手様式の中でも名品とされる一群「型物(かたもの)」のひとつ。その中でも金彩の使用が多く、一番豪華なのではないでしょうか。見込の丸窓内に一艘、その左右の窓に一艘ずつ、そして、外側面の窓絵にも二艘の船を描くところから、「五艘船(ごそうせん)」の名で知られています。見込の窓絵外には、緑と紫の菊菱文を交互に配した背景に8人の人物をあらわします。赤い髪や高い鼻が特徴的な彼らは、江戸時代に日本が交易を持ったヨーロッパの国、オランダの人々であると考えられます。ほかの型物は「荒磯」や「壽字」、「雲龍」など、東洋的な図案を主題とするのに対して、オランダの人と船をあらわす本作は変わり種。貿易によって富をもたらす宝船として吉祥文様的な意味合いも指摘されていますが、異国への興味関心を抜きに語れない文様でしょう。
 

 ここでは、とくに8人のオランダ人の描写に注目してみます。二人ずつ向き合って、何やら話し込んでいる様子。男性ばかりですが、顔立ちから老若描き分けられているよう。しかも、人物文には上絵の赤と黒、金彩の三色しか用いていないにも関わらず、衣服やポーズを皆少しずつ変えています。花模様や唐草模様の衣服を纏っている者もおり、なかなかおしゃれ。手にはパイプやステッキ、腰にはサーベルなど、日本には馴染みの薄い文物がきちんと描き込まれています。ぱっと見た印象では、ややデフォルメされているように感じますが、じっくり観察すると綿密に描き込まれ、風俗もリアルなのです。

 伊万里焼では、誕生当初の17世紀前期から人物文を主題に採り入れてきましたが、もっぱら中国人か日本人をモデルにしていました。オランダ人の文様は「色絵 五艘船文 鉢」の製作された18世紀前半頃からようやくあらわれます。何故、このような時代差が生じているのでしょうか。また、突如あらわれた文様であるにも関わらず、何故リアリティのあるオランダ人が描けたのでしょうか。

 まず、歴史的な観点から見ていくと、オランダとの交易が行われていたとは言え、江戸時代前期は鎖国政策が推し進められた時期。日本人の海外渡航は禁止され、オランダ人の居留も長崎・出島のみと厳しく制限されていました。風向きが変わるのは18世紀に入った享保5年(1720)。八代将軍徳川吉宗が、キリスト教関連以外の漢訳洋書の輸入制限を緩和しました。この緩和によって、貿易のみならず蘭学も興隆していき、阿蘭陀(オランダ)趣味の流行に繋がります。
 また、美術史的な側面では、日本人が観察によって出島のオランダ人を絵にあらわす行為は、元禄年間から本格化したと考えられます。元禄10年(1697)、渡辺秀石(1639~1707)が初代の唐絵目利兼御用絵師に任命されました。彼は、元禄12年(1699)には幕府勘定頭・荻原重秀の命により、長崎の唐人屋敷とオランダ商館の絵図をあらわしたとされています。なお、唐絵目利には渡辺家をはじめとする四家が代々命じられており、こうした肉筆風俗画も繰り返し制作されました。次の「長崎唐蘭館図巻」は、秀石の絵図の系譜を引くものと考えられています。





 出島内の屋敷の所々で、食事をしたり、パイプをくゆらしつつ語らったりするオランダの人々の描写は、実に生き生きとしています。衣服もそれぞれ描き分けられ、異国の風俗も細かにわかるよう。出島への出入りが許された唐絵目利でなければあらわせない描写です。そして、「色絵 五艘船文 鉢」の表現は、綿密な風俗描写や四・五頭身程に多少デフォルメされた親しみやすいオランダ人の風貌など、どこか通ずるところがあるように感じられます。実際、オランダ人やオランダ船、長崎の風景などをあらわして長崎土産として人気を博した長崎版画の画家たちも、出島への自由なスケッチ取材は許されず、唐絵目利兼御用絵師たちの肉筆画作品を素材として制作していたという指摘もあります。伊万里焼の商売人は寛文2年(1662)に出島内に小屋を立て店を出すことが許可されているため、絵の心得のある人物を伴ってのスケッチの機会が全く無かったとは言えませんが、唐絵目利たちによる絵図の存在やその描写を見るにつけ、伊万里焼の絵付けに関わる人々がこれらを参考にした可能性もあるのではないでしょうか。

 オランダ人やオランダ船をあらわした伊万里焼は、「色絵 五艘船文 鉢」の後も作られ続けました。色絵はもちろん染付でも、器種は蓋付碗や猪口、水注など色々な作例が残ります。京焼にもオランダ人文様が見られますが、伊万里焼における展開の豊かさを見ると、主な生産地である有田が長崎・出島まで程近く、また、その出島からオランダ東インド会社を通じて世界へ輸出されたという、立地や歴史を思わずにはいられません。あわせて、このような時節柄だからでしょうか、なかなか旅も叶わなかった江戸時代の人々の異国への好奇や憧憬というのが身に染みるようです。
(黒沢)


※「長崎唐蘭館図巻」の画像は神戸市立博物館より許可を得て掲載いたしました。この場を借りて御礼申し上げます。

【参考文献】
・古賀十二郎『長崎画史彙伝』大正堂書店1983
・たばこと塩の博物館『阿蘭陀趣味 鎖国下のエキゾチシズム』同1996
・伊万里市史編さん委員会『伊万里市史 陶磁器編 古伊万里』伊万里市2002
・九州国立博物館『視覚革命! 異国と出会った江戸絵画 神戸市立博物館名品展』同2013
・岡泰正『日欧美術交流史論 17~19世紀におけるイメージの接触と変容』中央公論美術出版2013
・植松有希・印田由貴子編『長崎版画と異国の面影』板橋区立美術館・読売新聞社・美術館連絡協議会2017


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