現展示のご案内
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古九谷・柿右衛門・鍋島展
会期:2014年10月4日(土)~ 12月23日(火・祝)



伊万里 色絵 牡丹双蝶文 皿
色絵 牡丹双蝶文 皿
伊万里(古九谷様式)
江戸時代(17世紀中期

伊万里 色絵 梅竹粟鶉文 皿
色絵 梅竹粟鶉文 皿
伊万里(柿右衛門様式)
江戸時代(17世紀後半)

色絵 蒲公英文 皿   鍋島
色絵 蒲公英文 皿 鍋島
江戸時代
(17世紀末~18世紀初)




展覧会概要


 我国では近代に至り、食器などの道具としてではなく、また茶の湯の評価からも離れて、陶磁器を美的鑑賞の対象としてとらえる“鑑賞陶器”という観念ができあがります。その中で注目されたのが「古九谷」「柿右衛門」「鍋島」でした。以来、多くの愛好家が誕生し、研究も進められ、現在ではこれらはそれぞれ独自の魅力を放ちながらも、密接に連関したやきものであることが分かってきています。
「古九谷」については未だに産地論争がありますが、一部の作品は肥前地方で作られた伊万里焼の初期の色絵磁器であることには疑いありません。中国の五彩磁器の影響を受けて発展した濃厚な色彩、躍動感あふれる大胆な構図の古九谷様式の伊万里焼は、一方では輸出需要からヨーロッパ好みの軽やかな赤の色彩が主役の柿右衛門様式へと展開し、一方では将軍献上用に格調高く仕上げられた鍋島焼に技術が応用されていきました。
今展示では、肥前磁器の精華「古九谷」「柿右衛門」「鍋島」をご堪能ください。

展示詳細


◆それぞれの呼称とやきものの特徴


「古九谷」

 「古九谷」とは、17世紀の中ごろに加賀の九谷村(現・石川県加賀市)で焼かれたやきものに対してつけられた呼称です。しかし窯跡の発掘調査が進むと、「古九谷」とみなされていた作品は、17世紀中期に肥前地方の有田(現・佐賀県有田町周辺)で焼かれた伊万里焼であることが明らかになってきました。この伊万里焼に対する「古九谷」の呼称が広く一般に定着していることをふまえ、名称の定義と産地のズレを解消するために、伊万里焼に対しては現在では便宜的に「古九谷様式(・・)」と表現しています。
 色絵磁器を作っていない朝鮮半島からの技術移入を受けて生産のはじまった伊万里焼では、草創期には色絵磁器を作ることができませんでしたが、1640年代になるとその焼成が可能になります。この初期の色絵磁器が古九谷様式と呼ばれている一群です。これらは、当時日本に多く輸入されていた中国景徳鎮(けいとくちん)窯(よう)の南京(なんきん)赤絵(あかえ)や漳州(しょうしゅう)窯(よう)の呉須(ごす)赤絵(あかえ)の影響を受け、中国風の絵付けが施されたほか、小袖などの和様のデザインも取り入れています。ダイナミックな構図に濃厚な色絵付けが施されているのが特徴です。

「柿右衛門」

 17世紀半ばに始まった輸出事業にあわせ、伊万里焼はヨーロッパ向けの新様式を作り出します。これらの作品は国内に伝えられた数が少ないこともあり、近代の研究においてはその貴重な色絵磁器を、江戸時代から名を知られた名工・酒井田柿右衛門個人の手になるものとして「柿右衛門」、「柿右衛門手」と呼びました。しかし、1970年代頃からヨーロッパに伝わった作品のいわゆる「里帰り」が盛んになったことや、ヨーロッパの東洋陶磁コレクションの実態が明らかになったこと、そして国内の窯跡の発掘調査が行われるなどの研究の進展から、現在では柿右衛門個人の作品ではなく、柿右衛門窯(・)が牽引した伊万里焼の一様式であると考えられるようになり、「柿右衛門様式」と呼ばれるようになりました。
 ヨーロッパにおける需要に応えて作り出された柿右衛門様式の伊万里焼は、土型を用いた薄く精巧な造り、赤を基調とした華麗な色、余白をいかした瀟洒な文様などが特徴です。中でも高度な技術により作り上げられた「濁手(にごしで)(乳白手)」と呼ばれる純白の磁肌をもつ作品は、柿右衛門様式の作品の中でも頂点に位置する最高級品といえます。

「鍋島」

 佐賀藩鍋島家の御用窯において作られた、主に将軍や幕府高官への献上・贈答用に用いられた特別なやきもののことを、現在では「鍋島」「鍋島焼」と呼んでいます。佐賀藩の御用を承る御用窯が最初に設置されたのは寛永年間(1624〜44)頃、有田の岩谷(いわや)川内(ごうち)においてと考えられており、その後大川内山(おおかわちやま)(現・伊万里市)に移転。どの時点から「鍋島焼」の生産が始まったとみなすかについては諸説分かれるところですが、大川内山時代の元禄年間(1688〜1703)には鍋島焼は最盛期を迎えます。
最盛期の鍋島焼は、木盃形(もくはいがた)と呼ばれる深皿に高い高台(こうだい)のついた独特の丸皿を基本とし、大きさは尺皿(口径約30cm)・七寸皿(口径約21cm)・五寸皿(口径約15cm)・小皿(口径約9~11cm)の4種類のみ。絵付けに関しても、染付で輪郭線を描いた上に上絵付けを重ねる賦(ふ)彩(さい)技法を徹底しており、上絵付けの色は赤・黄・緑の3色に限られています。そのほか、高台文様は櫛目文様を基本とするなど、全体的に文様の種類も限定的であり、その形・装飾に関しては厳格に規格化されていたことが分かります。抑制の効いた輪郭線に縁取られた文様は、献上品にふさわしい品格を醸しています。

◆それぞれのつながり


古九谷様式と柿右衛門様式
 古九谷様式と柿右衛門様式は様式的差異が大きいことから、連続した時間軸の中で作られた伊万里焼でありながら、全く別のやきものに感じる、同じ伊万里焼とは思えないなどの意見が寄せられることがあります。もちろん、そこには産地論争の問題も意識されてのことでしょう。
 しかし、古九谷様式が作られた17世紀中ごろと柿右衛門様式が作られた17世紀後半では、伊万里焼をとりまく環境は大きく変化しており、そうした背景からこの様式的差異の原因を考えてみると、作風に大きな変化が生まれるのは至って当然のことのようにも考えられます。
 例えば、17世紀中ごろに作られた古九谷様式の伊万里焼は、一部は東南アジアなどにも輸出されていることが確認されていますが、基本的には日本国内向けの製品であり、大名屋敷で宴用の什器として用いられたものでした。それに対し、伊万里焼の輸出が本格化した17世紀後半に作られた柿右衛門様式の伊万里焼は国内に伝わる数が極端に少なく、多くはヨーロッパに輸出され、彼の地の王侯貴族の東洋趣味を大いに満足させた贅沢品でした。こうした受容者の違いは異なる需要を生み出し、伊万里焼の主流の作風が変遷していく契機となりました。
 また、それぞれの様式を代表する典型的タイプの作品を比較すると様式的差異が大きく感じられますが、その間をつなぐ中間様式の作品も存在しています。現在では初期輸出タイプと呼ばれている作品群がそれにあたり、古九谷様式の濃厚な色使いを残しながらも、古九谷様式時代よりも素地(きじ)は白く、より鮮やかな発色の赤の上絵を多用するように変化しており、柿右衛門様式の萌芽を感じさせます。

色絵 蒲公英文 皿   鍋島



古九谷様式・柿右衛門様式と鍋島焼
 同様に、有田とは山を一つ隔てた大川内山で作られた鍋島焼についても、古九谷様式、柿右衛門様式との関連性を見出すことができます。たとえば、最初に御用窯が築かれたという岩谷川内地区にある猿川窯は、古九谷様式の色絵素地片が出土しているだけでなく、高台内に目(め)跡(あと)(焼成時の窯道具痕)を残さないなど鍋島焼と共通の特徴をもつ、言い換えれば草創期の鍋島焼ともいえる製品も発見されています。現在に伝わる作品の中でも特に前期の鍋島焼において、花などをかたどった変形皿が多いことや、濃厚な色使い、裏文様などに古九谷様式の伊万里焼との近似性を感じ取ることができます。

 また、元禄6(1693)年に藩主より、佐賀藩の陶磁生産をつかさどる有田皿山代官に出された指示書「有田皿山代官江相渡手頭」には、有田の優秀な陶工を鍋島藩窯に引き抜くように、あるいは珍しい文様の伊万里焼があれば鍋島焼の参考とするためデザインを描き写して提出するようにとの指示が出されていることから、伊万里焼と鍋島焼の間には技術上・デザイン上の交流があったものとみられます。それを示すように、鍋島焼の中には、柿右衛門様式の伊万里焼や柿右衛門様式に続いて打ち立てられた新様式・古伊万里金襴手様式の伊万里焼と近似した装飾をもつ作品を見つけることもできます。

色絵 蒲公英文 皿   鍋島
色絵 牡丹文 変形皿  鍋島
江戸時代(17世紀後半)


色絵 唐花文 台皿 伊万里
色絵 唐花文 台皿  伊万里
江戸時代(17世紀末)
色絵 菊唐草文 皿  鍋島
色絵 菊唐草文 皿 鍋島
江戸時代(17世紀後半)

見込周辺のみ意匠化された花文をつなぐという構図が良く似た柿右衛門様式時代の伊万里焼と鍋島焼。染付による輪郭線を描いた上に色絵を加えている賦彩技法も共通している。



 別々の魅力をそなえていながらも、相互に関連し合っている古九谷様式、柿右衛門様式の伊万里焼、そして鍋島焼のつながりをご紹介いたします。



●プレス・広報ご担当の方へ
展示予定作品の画像データ等ご用意しております。
取材は随時受け付けておりますので、下記の問い合わせ先へご連絡いただき、掲載媒体・取材内容についての企画書をお送りください。
内容を検討し、追ってご連絡いたします。

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  『古九谷・柿右衛門・鍋島展』プレスリリース
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