色絵椿文皿
江戸時代(17世紀末~18世紀初)
高5.9cm 口径20.3cm
余寒お見舞い申し上げます。
戸栗美術館では引き続き『鍋島焼と図案帳』展を開催しております。今月は第3展示室に展示中の「色絵 椿文 皿」から、改めて鍋島焼の絵付け方法についてご紹介したいと思います。
豆彩 葡萄栗鼠文 瓢形瓶 清・雍正在銘(1723~1735) 景徳鎮窯 高12.4cm |
鍋島焼の絵付けでは、染付の輪郭線を基本とし、その中を濃み(だみ/染付による塗りつぶし技法)や上絵の黄や緑で塗り埋める手法が採られています。この技法は中国では「豆彩」と呼ばれ、明時代の宣徳年間(1426-1435)には試作が始まり、成化年間(1465-1487)に完成しました。上絵付けのうち緑色が豆のように瑞々しい淡緑色であることからこの名称が与えられ、また複数の色が美を競うようであるという意味から「闘彩」と記されることもあります。のちの清朝の特に雍正年間(1723-1735)には名高い成化豆彩の写しや、その技法を用いてさらに美しく仕上げた作品が作られました。
絵付け技法の共通性のみで清朝の官窯磁器と鍋島焼の影響関係を論じるのは早計のそしりを免れないでしょうが、近年の発掘調査では、沖縄の首里城跡や中城御殿跡などから康熙や雍正の年款銘をもつ豆彩磁器片が発見されています。そうした資料が増加すれば、あるいは鍋島焼が中国の豆彩技法を取り入れた可能性も見えてくるのかもしれません。
さて、その鍋島焼の絵付け方法はどのような手順で行われているのでしょうか。
①まず素焼き素地に、仲立ち紙(※1)を使って墨で下書き線を付けます。
②その下書き線をなぞるように、青い染付顔料(呉須)で文様の輪郭を描いていきます。その際、椿の花弁や蕊(しべ)など赤の上絵を施す予定の部分には、特に淡い発色になるように薄く線描きします。
(③)墨弾き(※2)を行う場合は、白抜きにしたい部分に墨で文様を描き入れます。(本作では墨弾きの技法は使われていません。)
④染付で青く塗る葉の部分や、幹に濃みを施します。幹のこぶの部分は、重ね塗りの回数を減らし、樹幹よりも明るい発色に仕上げています。
(⑤)墨弾き技法を用いた場合は、釉薬をかける前に低い温度で軽く焼き、墨の部分を焼き飛ばします。⑥釉薬をかけ、本焼き焼成(1350度前後)を行います。
⑦葉は黄・緑、椿の花や蕾は赤の上絵顔料で、色絵を施します。
⑧本焼き用の登り窯よりも小さな錦窯にて、上絵を焼き付けます(800度前後)。⑨完成
②の工程で、淡く染付の線描きを施すのは、墨による下書きは本焼き焼成で焼け飛び、消えてなくなるため、本焼き焼成後に染付の線が下書き線としての役割を果たし、かつ赤の色彩に影響させないための工夫です。完成した鍋島焼を見てみると、赤の下に施された染付の輪郭線は見えなくなっていますが、稀に線描きがずれ、淡い染付の下書きが赤線の脇から覗いていることもあります。また、本焼き焼成の段階で器がゆがんだり、染付の発色不良などで、破棄された陶片を見てみると、淡い染付線の存在がよくわかります。献上・贈答を賄うに足る量(※3)の均質な製品を製作するための工夫といえるでしょう。
1月末には作品保護のため展示品(図案帳)の入れ替えも行いました。こちらも併せてご覧いただければ幸いです。
(※1)仲立ち紙(なかだちがみ)とは、同じ文様を繰り返し描くための下図用の型紙。和紙に墨で文様を描いたものを型紙とし、うつわの表面に重ねて上からバレンのようなもの(椿の葉が良いとされる)を使ってこすると、素地に文様が写し出される。墨は焼成時に燃えるため残らない。
(※2)墨弾きとは白く残したい部分に墨を塗り、その上から呉須を塗った後、焼成する技法。焼くことで墨は消え、呉須の部分は残るため白抜きの文様ができる。
(※3)鍋島焼は将軍家献上の他に、幕府高官や鍋島家親戚筋などへ贈答されていますが、『石橋代官史料』(慶応2年/1866年)の記録によると、その総数は年間5031個であったといいます。
(木野)