銹釉色絵斜線文角瓶
伊万里
江戸時代(18世紀前半)
高27.6cm 底径10.7×10.3cm
渋谷周辺でも桜が見ごろになってきています。皆様つつがなくお過ごしのことと存じます。今回の学芸の小部屋では、第3展示室『古伊万里のすべて』の中から、「銹釉色絵 斜線文 角瓶」をご紹介いたします。
板作りで成形した角瓶に、銹釉と透明釉を斜めに交互に施し、透明釉の帯の上には赤・紫・緑の上絵を重ねて帯を細分。あたかも銹釉の角瓶に、ストライプ柄のリボンを巻きつけているかのようなユニークな文様です。天井部には、松葉に瑠璃釉・幹に銹釉を施した松樹を貼り付け、提手としています(注口は後補。)さまざまな絵付け文様をもつ伊万里焼の中でも一際異彩を放つ珍しい装飾の作品と言えるでしょう。
芸術家による芸術作品ではなく、職人が分業で生産した商品である伊万里焼には、本来、固有の作品名はありません。そのため現在では「技法+文様名+器形」という一定のルールに従って、便宜的に作品名がつけられています。本作の場合、技法=銹釉色絵、文様=斜線文、器形=角瓶。しかし文様名については、何を主題とみなすか、その文様を何ととらえるかなど、人の主観による部分もあります。たとえば、本作も作品が納められている箱(ただし共箱ではなく新しくあつらえられたもの)の蓋表に「色絵 有平文 角瓶」と記されており、かつては「有平文」と呼ばれていたことが分かります。
「有平(あるへい、またはありへい)」とはポルトガルやスペインとの交流の中でもたらされた南蛮菓子の有平糖のこと。砂糖を煮詰めてから冷やし、引き伸ばして細工を施した飴状のもので、ポルトガルの砂糖菓子アルフェロア(Alfeloa)、あるいはアルフェニン(Alfenim)に由来すると言われています。17世紀初頭においては、布教活動の一環として有平糖を含む南蛮菓子が広くふるまわれたことや、京都を中心に多くの店で製造され宮中にも納められていたことなどが文献から知られています(※1)。鎖国完成後も作り続けられ、国産砂糖が普及した江戸後期には庶民にまで裾野が広がり、華やかな色や形のものが盛んに作られるようになりました(※2)。
江戸時代にあらわされた和菓子の商品カタログである菓子絵図帳のほか、錦絵、摺物などをみると、金魚や貝、小花、蕨(わらび)などをかたどった形状の有平糖も作られていますが、縞模様のリボンを曲げたり、結ったような形状のものがよく描かれており、一般的だったようです(※3)。
この有平糖のデザインから派生して、カラフルな縞模様に対して「有平縞」、その模様をもつ更紗を「有平更紗」と呼ぶようになり、さらにかつては女性の髪型にも「有平巻」と呼ばれるものがあったり、理髪店の三色のサインポールのことを「有平棒」と呼んだともいい(※4)、派生語の多さに「有平糖=カラフルな縞模様」という認識の浸透ぶりがうかがえます。本作の文様に対して「有平文」と呼ぶのも、有平糖を表した文様だからではなく、このような認識の浸透からきているものと考えられます(※5)。
当館では、開館後最初の展示(1987年11月21日~1988年3月30日『開館記念名品展』)において既に本作を「銹釉色絵 斜線文 角瓶」と表記した記録がありますので、開館当時、より客観的な名称として「斜線文」を採用したのでしょう。
今回作品を展示するのに際し改めて作品の箱を手にし、「そうだ、この文様は有平文とも呼ぶのだった」と思い出し、有平糖へと思考が浮遊していきました。有平糖を表現したものではないとしても、文様名とあいまって、紫や緑の上絵顔料の光沢が有平糖のつやを、上絵の剥落した箇所が口の中でほろりと崩れる食感を連想させ、何とも甘い気分を味わわせてくれます。
戸栗美術館では4月12日より『古伊万里動物図鑑展』を開催いたします。同展では、古伊万里の中から動物をモチーフとした作品をピックアップし、図鑑になぞらえて展観します。
職員一同皆様のご来館を心よりお待ち申し上げております。
※1中山圭子『事典 和菓子の世界』岩波書店 2006年
※2『守貞謾稿』(喜田川守貞 天保8(1837)年起稿) には、「有平は専ら種々の形を手造りにするもの多し。しかるに、近年京坂にて鎔製にするものあり。白砂糖を練り、鎔形を以て焼き、而後に筆・刷毛等にて彩を施し、鯉・鮒・うど・竹の子・蓮根、其他種々を製す。真物の如し。号けて金花糖と云ふ。嘉永に至り江戸にも伝へ製す。」とあります。
※3 Roger S. Keyes, “Surimono: Privately Published Japanese Prints in the Spencer Museum of Art” Kodansha Amer Inc, 1984
大久保純一「錦絵に描かれた菓子」『和菓子』第17号 虎屋文庫 2010年 ほか
※4 同※1
※5 これらの派生語がいつごろ誕生したのかまでは現在のところ調べられていないながら、幕末~明治以降のことではないかと推測しています。そして、本作の箱は、共箱ではない新しい箱だからこそ「有平文」の名称が与えられたのではないかと想像しています。というのも、正徳2(1712)年ごろ寺島良安によって著された百科事典『和漢三才図会』には「阿留平糖(あるへいとう)は円形で胡桃のような筋のある菓子」の説明と図が付されており、この時点ではカラフルな縞文様の有平糖は登場していなかった、または一般的ではなかったとみられます。また縞模様の有平糖が描かれている錦絵や摺物は江戸後期のものが多いこと、サインポールは明治初年頃に日本に伝わったことなどを論拠として挙げることができます。
(木野)