当館のお庭の木々の緑も日に日に鮮やかになっています。皆様いかがお過ごしでしょうか。
今年度の学芸の小部屋では、展示に合わせた内容をご紹介しております。今月は「やきもの戦争と伊万里焼の創始」をテーマに進めていきたいと思います。
まず、“やきもの戦争”とは、明征服をめざす豊臣秀吉が文禄元年(1592)から慶長3年(1598)にかけて朝鮮に侵略した出来事で、一般に「朝鮮出兵」あるいは「文禄・慶長の役」と呼ばれています。
このやきもの戦争には、伊万里焼の誕生する有田の地を治めていた佐賀鍋島藩の藩祖、鍋島直茂(なべしまなおしげ)らも出兵していました。秀吉の死後、朝鮮からの帰陣の折に、直茂をはじめとした大名たちは、滞陣中に道案内をつとめたり、食糧などの供出に協力した農民や漁民、とくに陶工などの職人を連れ帰り、それぞれの領内に定住・帰化させました。このような朝鮮人が多く住みついたのが、佐賀鍋島領内や平戸の松浦領、薩摩の島津領内だったのです。
これらの地域では、やきもの戦争以前の1580~1590年頃から、すでに陶器の生産が行なわれていました。そこにさらに多数の朝鮮人陶工が渡来したことで、西肥前一帯、とくに有田を含む旧西松浦地方や武雄地方に、おびただしい数の窯場が築かれることとなり、以後、これらの地域は一大窯業地としてその名を知られるようになります。
こうして、豊臣秀吉による朝鮮出兵は、九州の地に陶器窯の急激な増加をもたらし、窯業界に大きな転機を与えたことから、“やきもの戦争”と呼ばれるようになりました。しかし、影響はそれだけには留まらず、その頃に多くの窯場が築かれた有田において、日本で初めての磁器が創始されることとなったのです。
磁器の生産がはじまったのは、天神森(てんじんもり)窯や原明(はらあけ)窯など、有田の中でも西側の窯場だったと考えられています。これらの窯跡からは陶器と磁器の両方が出土し、陶器を焼いていた窯で磁器も焼造されていたことが確認されています。
出土した陶磁器の窯詰め方法に注目すると、2種類が観察されます。ひとつは、胎土目積み(たいどめづみ)といい、焼成時に製品同士の溶着を防ぐために、胎土と同様の粘土を丸めた目を挟む方法(写真1)。もう一方の砂目積み(すなめづみ)は、砂分の多い団子状の目を使用する方法です(写真2)。
両者の使用には前後関係がみられ、胎土目積みされた陶器の方が古い地層から出土しています。対して、新しい地層から出土する磁器には砂目積みのみが使用されています。また、原明窯から陶器の上に磁器が砂目積みされて焼きついた例が発見されたことなどからも、磁器の焼成は砂目積み段階に移行してから始まったと考えられています。
なお、胎土目積みから砂目積みへの移行の時期は、諸説ありますが、消費地遺跡からの出土状況等も鑑みて1610年代頃に進んだといわれ、磁器、つまり伊万里焼の創始もその頃とみる説が一般的となっています。
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写真1 胎土目積みの目が残る陶片 (特別展示室にて出展中) | 写真2 砂目積みの目が残る陶片 |
以上「やきもの戦争と伊万里焼の創始」について筆を進めてまいりましたがいかがでしたでしょうか。伊万里焼の創始に関しては、「朝鮮人陶工李参平が泉山で陶石を発見し、元和二年(1616)に有田の白川天狗谷に窯を築いて磁器を創始した」(村上伸之「日本磁器の創始を考察する一つの視点」『初期伊万里 —小皿編—』古伊万里刊行会1998/p65より)という説とそれにまつわる議論も知られていますが、今回は私の大学時代の専門である考古学の視点からご紹介させていただきました。
さて、現在開催中の「初期伊万里展」では、1610~40年代につくられた創始期の伊万里焼をご紹介しております。施釉時の陶工の指跡が残っていたり、形に歪みがあったりと、技術的に未熟な点も見受けられますが、自由闊達な絵付けや直径40cmを超える大皿を見ていると、陶工たちの磁器焼造に対する気概が伝わってくるようです。どうぞ間近で初期伊万里をご覧くださいませ。皆様のご来館をお待ち申し上げております。
(黒沢)
参考文献
永竹威『古伊万里の世界』ブレーン出版1975/有田町史編纂委員会編『有田町史 陶業編Ⅰ』ぎょうせい1985/大橋康二『考古学ライブラリー55 肥前陶磁』ニュー・サイエンス社1989/村上伸之「日本磁器の創始を考察する一つの視点」『初期伊万里 —小皿編—』古伊万里刊行会1998/有田歴史民俗資料館報『季刊皿山』NO.55(2002.9)/大橋康二『世界をリードした磁器窯・肥前窯』新泉社2004/『国史跡 天狗谷窯跡』有田町教育委員会2010