学芸の小部屋

2015年6月号

「第3回:初期伊万里を製造した窯」

 皆様、こんにちは。爽やかな風が心地よい今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

 早いもので、戸栗美術館で開催中の「初期伊万里展」の会期もあと3週間となりました(6月21日(日)まで)。今年度の学芸の小部屋は企画展に合わせた内容をお届けしておりますので、今月は「初期伊万里を製造した窯」について取り上げます。

 先月(2015年5月号)ご紹介した通り、伊万里焼(磁器)は、16世紀末頃より有田地域で稼働していた唐津陶の窯において、陶磁併焼の形で創始されたと考えられています。窯跡の発掘調査から、有田西部に位置する窯が草創期の初期伊万里を製造した窯であることが確認され、原明(はらあけ)窯・天神森(てんじんもり)窯・小溝(こみぞ)窯などが知られます。これらの窯では、身近で採取される原料を用いた製造を行ったと考えられており、窯跡からは目積み跡の残る皿類など、粗製の陶磁器が出土しています。

 寛永14(1637)年、有田地域の窯業にとって大きな転機となる、佐賀鍋島藩による「窯場の整理・統合政策」が施行されます。この政策は、17世紀に入り有田を含む肥前地方に続々と窯が開かれ、窯焚きに使う薪材確保のために山林が切り荒らされるようになったことから、木の乱伐防止を目的として行われました。
 初代皿山代官となる山本神右衛門の記録「山本神右衛門重澄年譜」(宝永4(1707)年)によると、この政策によって、日本人陶工を中心に男女826人が追放されたとあります。中には、日本人であっても長く窯業に携わっていた者は追放を免除され、逆に朝鮮人であっても他国から来て家を持たない者は追放されたとの記録もあり、結果、腕の良い朝鮮人陶工とわずかな日本人陶工だけが窯業に従事する体制となりました。

 また、この際、伊万里4ヶ所、有田7ヶ所の窯が取り潰され、有田13ヶ所の窯に統合されたとも伝えられています。窯跡の発掘調査などから、取り潰されたのは有田西部で草創期から稼働した天神森窯や小溝窯などの陶磁併焼を行った窯であることが明らかになった一方、13ヶ所に統合された窯がどの窯に該当するかは定かではありません。
 ちなみに、16年後に記された「万御小物成方算用帳」(承応2(1653)年)には、「外尾山、黒仁田山(黒牟田山)、岩屋川内山、稗古場山、上白川山、中白川山、下白川山、大樽山中樽山、小樽山、歳木山、板ノ川内山、日外山、南河原山」といった有田東部に位置する14ヶ所の窯が登場することから、この頃の窯業の中心が有田東部にあったことがうかがえます。おそらく寛永14年の整理・統合時に窯業の中心が西部から東部へと移されたと考えるのが自然でしょう。
 有田東部には、この頃の一元的な原料採掘地である泉山が位置したため、窯の移動によって良質な原料の確保や原料運搬の効率が向上したことが考えられます。1630年代以降、東部に開窯した窯跡の発掘調査では、陶器は出土せず磁器のみが生産されていたことがわかりました。これは、西部から東部へと窯業の主体が移った際に、陶磁併焼から磁器専業へ生産体制が大きく転換したことを示しています。結果、高品質な磁器製品の大量生産が可能となり、有田地域は東部を中心とした磁器の一大産地となるのです。ちなみに、今展出展の初期伊万里の作品の多くは寛永14年の政策以降に稼働した磁器専業窯で製造されたものと考えられます。

 有田東部で稼働した磁器専業窯の1つに、天狗谷窯があります。現在、その窯跡は国史跡に指定され、遺跡の整備も行われています(右下図・天狗谷窯跡。2015年3月撮影)。天狗谷窯の位置した白川地区は、朝鮮人陶工・李参平の記録「金ヶ江家文書」において「李参平が泉山を発見した後、最初に“白川の天狗谷”に窯を開いた」という記述の中に登場します。この事から古くは磁器創始の窯と考えられていましたが、昭和40年代・平成11~13年度に行われた大規模な発掘調査などから、天狗谷窯ではなく西部に位置する小溝窯などが磁器創始の窯であることが明らかとなりました。



 「白川」の地名は「山本神右衛門重澄年譜」にも登場し、寛永14年の窯場の整理・統合の際、統合される範囲の境を「黒牟田、岩谷川内皿屋より上、年木山切り、上白川切り」と記しています。従って、寛永14年以前から白川地区に窯が存在していたと見ることができ、発掘調査などを踏まえ、天狗谷窯の開窯は寛永14年以前の1620年頃と見られています。
 ただ、寛永14年以前に有田西部で稼働した諸窯と異なるのは、窯跡出土品の中に陶器は伴わず、磁器ばかりが確認されたということ。おそらく天狗谷窯は開窯当初から磁器専業の生産体制をとっていたのでしょう。以降も1660年代頃まで稼働を続け、特に碗と瓶を数多く製造しました。窯跡出土品の中に初期伊万里の皿類は少なく、碗や瓶に器種を絞ることで効率的に大量生産を行ったとも考えられます。

 今展では、天狗谷窯跡において確認された最も古いE窯の出土品と類似する「青磁 菊文 瓶」(右図・第2展示室出展)を展示しております。
 丸い胴部に、歪みの無い垂直に伸びる首のついた瓶。肩部にヘラ彫りによる菊の花弁の陽刻を施し、胴部に圏線をめぐらせています。器面にあらわした凹凸の上に青磁釉を掛けることで生まれた、青磁の濃淡が美しい作品です。本品の丁寧な作行きを見ると、天狗谷窯は開窯当初から高品質な製品を製造していたことがうかがえます。

 一言に「初期伊万里を製造した窯」と言っても同時代に複数存在し、稼働年代や所在地、寛永14年の窯場の整理・統合政策の前後で、その性質は大きく異なります。淘汰されていった窯もあれば、次代へ存続した窯もありますが、それらの窯跡出土品を見ると、器形や意匠、装飾技法などに得意とした製品の傾向がうかがえ、それぞれに試行錯誤の中で特色ある製品を生み出していた様子が想像できます。現在開催中の「初期伊万里展」の鑑賞を通し、伊万里焼の歴史の始まりに稼働した窯や、陶工たちへと思いを馳せていただければと思います。
 皆様のお越しを心よりお待ちしております。

(竹田)

参考文献
有田町史編纂委員会「有田町史 陶業編Ⅰ」1985年/古伊万里刊行会「肥前陶磁シリーズⅡ初期伊万里-小皿編-」1998年/日比谷図書文化館(千代田区教育委員会)「徳川将軍家の器」2013年/有田町教育委員会「国史跡 天狗谷窯跡 —史跡肥前磁器窯跡(天狗谷窯跡)保存整備事業報告書—」2010年

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