学芸の小部屋

2015年8月号

「第5回:古九谷様式」

 暑さの厳しい今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 当館では現在「古九谷展」を開催しております。赤・黄・緑・紫などの上絵顔料を用いて製作された色彩豊かな色絵製品をはじめ、染付、銹釉、瑠璃釉の製品など約80点を展示。17世紀中期の多様な表現をご覧いただく内容でございます。
 今月の学芸の小部屋では、現在出展中の下図のような色絵製品の産地が、佐賀・有田産か、加賀・九谷産かをめぐる論争についてご紹介します。

(左)「色絵 瓜文 皿」伊万里(古九谷様式)江戸時代(17世紀中期)口径44.5cm
(右)「色絵 葡萄鳥文 輪花皿」伊万里(古九谷様式)江戸時代(17世紀中期)口径34.5cm

 17世紀初頭に日本で初めての磁器を焼きはじめた有田では、1640年代頃、色絵磁器の焼造にも成功します。一方、同じ17世紀中頃、九谷でも磁器窯が築かれました。しかし、この九谷の窯は数十年で廃窯してしまいます。その後、19世紀に入ると加賀に複数の窯が築かれることとなり、特にそのうちの吉田屋窯では、上掲の写真のような色絵磁器を「古く九谷でつくられたやきもの」であると考え、手本としました。こうして再興された19世紀の九谷焼に対して、手本となった色絵磁器には「古九谷(こくたに)」という名称が与えられました。
 ところが昭和20年代、「古九谷」と呼ばれるやきものが有田でつくられたものではないかという説が登場し、それ以後有田産か九谷産かをめぐって激しい論争が巻き起こります。なお、そのような論争の過程で、これらの色絵磁器を「古九谷様式」と呼ぶことが提唱されていますので(註1)、ここでは以下それに倣いたいと思います。

 では、なぜ有田説が提唱されるようになったのでしょうか。 有田説が大きく取り上げられるようになったのは、戦後の昭和20年代。背景には江戸時代に海外へと輸出された伊万里焼の日本への里帰りがありました。里帰りした初期の柿右衛門様式の製品と、古九谷様式の製品の共通性が注目されるようになり、有田説を支持する論考が次々と登場します。また、昭和31年(1956)にロンドンで「日本の磁器展」(英国東洋陶磁協会主催)が開催され、その図録の中でジェニンス氏(大英博物館東洋部長)が、日本で「古九谷」としている色絵磁器とよく似たものがヨーロッパへ輸出されていること、しかも1671年以前にヨーロッパで付された銀製の蓋を伴う水注があることを報告し、このような色絵磁器は、九谷産ではなく有田産とするべきではないか、と提言したといいます。

 昭和40年代からは、考古学的なアプローチとして、生産地遺跡の発掘調査も行われました。その結果、有田町西部に所在する山辺田(やんべた)窯跡や丸尾窯跡など、複数の窯跡から古九谷様式の白磁素地と色絵磁器片が出土しています。一方1980年代に入ると、加賀藩前田家の屋敷跡にあたる東京大学本郷構内遺跡においても発掘調査が実施され、古九谷様式の色絵磁器片が出土しました。それらに対して素地の化学分析が行われた結果、有田ないし伊万里焼の素地であることが明らかとなりました。
 さらに近年、山辺田窯跡に隣接する山辺田遺跡の発掘調査が行われ、同遺跡が山辺田窯の工房跡群と推測されること、赤絵窯(あかえがま)(註2)の構築部材である内窯の破片が多く出土したことが報告されています。
 以上のことから、現在では絵付け工程まで含めて、すべて有田で行われたとする有田説が有力視されています。

しかし17世紀中期の九谷で、色絵磁器製品が全く生産されていなかったかというと、そうではないことが発掘調査からわかってきています。
 九谷古窯跡は、昭和45年(1970)から同52年(1977)にかけて発掘調査が行われ、江戸時代前期の登り窯が2基検出されています。当時の調査では、色絵素地や色絵磁器片も出土しましたが、色絵素地は古九谷様式の製品とは異なる器形のものが多いことが指摘されています。なお、同遺跡は平成19年(2007)以降も整備に伴う発掘調査が行われており、2008年には九谷古窯の前方より、古九谷様式の色絵磁器片が出土したことが報告されています。
 平成に入ると、九谷古窯から200mほど離れた江戸時代の屋敷跡である九谷A遺跡の発掘調査が行われ、色絵磁器片が数十点出土したほか、絵付窯跡とみられる焼土遺構が検出されたといい、同遺跡は九谷焼の生産を管理した施設の跡と考えられています。
 このような発掘調査の結果から、17世紀中期に九谷の地でも色絵磁器が製造されていたのではないか、言い換えると本来の意味での「古九谷焼」が存在したのではないかと考えられています。九谷での磁器生産の背景として、佐賀鍋島藩と大聖寺藩前田家の間に婚姻による縁戚関係があり、両産地の間に人や技術の交流および伝播があったという指摘もあり、今後の研究が待たれます。

以上、「古九谷」論争についてご紹介してきましたが、長きにわたる論争が生じたのも古九谷様式の製品の持つ魅力あってこそのことでしょう。
 現在開催中の「古九谷展」は、大皿を中心に展示しており、独特の文様構成や濃厚な色遣いなど、古九谷様式のやきものの魅力を存分にお楽しみいただけます。暑い時期ではございますが、ご来館を心よりお待ち申し上げております。

(註1)
「古九谷様式」という言葉は、それまで「古九谷」と呼ばれてきた色絵磁器の一群を、産地の概念から切り離し、色絵の一様式として捉えるもので、昭和60年(1985)の東京国立博物館における展覧会「日本の陶磁」において初めて使用されました。
(註2)
色絵製品は、登り窯で本焼きした素地に上絵付けを施し、本焼きより低い温度で焼成することで製造されます。その上絵付け後の焼成で用いる低火度焼成の小型窯が「赤絵窯」であり。赤絵窯は工房内に設けられました。なお、「赤絵」とは、佐賀のことばで色絵のことを指します。

(黒沢)

(主要参考文献)
西田宏子『陶磁大系22 九谷』平凡社1979/『東京大学本郷構内の遺跡 理学部7号館地点』東京大学理学部遺跡調査室1989/『東京大学本郷構内の遺跡 医学部附属病院地点』東京大学遺跡調査室1990/『図説 江戸考古学研究事典』江戸遺跡研究会2001/矢部良明ほか『角川 日本陶磁大辞典』角川書店2002/『九谷古窯跡発掘調査報告書』石川県教育委員会2007/『目の目395』里文出版2009年8月/『聚美5』青月社2012/「季刊 皿山106」有田町歴史民俗資料館2015

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