皆様、こんにちは。連日の猛暑が収まり、過ごしやすい日が増えてきました。いかがお過ごしでしょうか。
戸栗美術館では現在「古九谷展」を開催しております。17世紀中期に入り、色鮮やかに展開した伊万里焼の初期色絵製品(古九谷様式)の中から、大皿を中心に約80点を展示。今月の学芸の小部屋では、この時代、数々の大皿の名品を生み出した窯場として知られる“山辺田(やんべた)窯“を取り上げます。
山辺田窯は現在の佐賀県西松浦郡有田町の北西、黒牟田(くろむた)地区に位置し、1590~1660年代にかけて稼働した窯場。昭和47~50年に行われた発掘調査により、水田横の丘陵地に9基の窯跡が発見されました。それぞれの出土品の特徴を見ていくと、開窯期の陶器から初期伊万里(創始期の磁器)を経て、古九谷様式へと続く製品の変遷を追うことができます。
まず最も古い4号窯からは、胎土目積み※1で、主に鉄絵を施した陶器の碗・皿類が大量に出土しました。砂目積み※1に移行した製品も確認でき、磁器製造に至る以前から稼働を開始した窯であることがわかります。
より稼働年代の新しい7号窯からは、陶器と磁器が共に出土。以降の窯跡からは主に磁器が出土していることから、陶磁併焼から磁器製造が本格的に始まった頃の窯と考えられます。また、7号窯の最後の段階では、伝世する初期伊万里に多い、鐔縁(つばぶち)をもつ染付大皿の製造が始まったと考えられています。こうした大皿は山辺田窯の特徴的な製品であり、出土品と器形・縁文様などの類似点があることから、当館所蔵の初期伊万里大皿の多くは山辺田窯製とみています(右上図※2)。
この頃、有田では“窯場の整理・統合政策”(寛永14(1637)年)という窯業における大きな転機がありました。これは、17世紀に入り有田の窯場と陶工の数が増大し、窯焚き用の木が乱伐されていることを問題視した佐賀鍋島藩により、優れた窯場と陶工のみを残しそのほかの窯場や日本人を中心とした陶工が追放された出来事。有田西部で陶磁併焼を行っていた窯場の多くが閉窯に追い込まれた中で、山辺田窯は閉窯を免れ稼働を続けた珍しい例と言えます。その要因の1つに先にあげた大皿の製造があげられ、数ある窯場の中でも山辺田窯がその技術に長けていたため、特別に同地で稼働を続けることを許されたと考えられています。
続く3・6・9号窯からは、染付製品のほか色絵素地が出土。中には大皿も見られ、1640年代以降は染付に加え色絵の大皿を製造していたことがわかります。この時期の色絵大皿の特徴として、①初期伊万里に比べ全体に薄作りで、②高台径が大きい、③高台内に染付2重圏線をひき、④ハリ支えの跡(目跡)が残る、などがあり、これらの条件を満たす色絵大皿は当館にも所蔵されています(右中央図※3)。
後の1・2号窯には、粗放なつくりの色絵素地がみられ、色絵の緑・黄で器面全体を塗り埋めるタイプ(右下図※4)を製造したと考えられます。また1号窯からは、海外輸出用とされる荒磯文鉢も少量発見されたと言います。
この頃は伊万里焼の海外輸出が始まり、大量生産を可能にするための効率化が図られ、1660年代には色絵付け専門業者を集めた“赤絵町”が形成されるなど、有田全体の磁器生産体制に大きな変革がもたらされた時代。海外輸出へと大きく舵が切られ、その様式も輸出向けの白地に上絵の赤を多用したものへと変わっていきました。山辺田窯の閉窯時期は同時期の1650年代後半~60年代頃であり、こうした伊万里焼の生産体制の転換と、求められる様式の変化が影響したものと考えられます。
では、山辺田窯が閉窯したことで職人やその技術が完全に失われたかと言うとそうではなく、赤絵町遺跡からは少量ながら山辺田窯製と推測される色絵素地片が出土したとの報告もあり、山辺田窯から職人の移動があった可能性が指摘されています。つまり、様式は変われど、職人やその技術は途切れることなく次世代に受け継がれたと言えるでしょう。
山辺田窯と言えば、近年その工房跡とみられる山辺田遺跡の発掘調査が進んでいることが新聞等に取り上げられ、皆様の記憶にも新しいことと思います。これまでの調査で、家屋の柱穴などの建物跡や色絵磁器片が100点程検出されていましたが、平成25年に行われた調査では色絵磁器片が細かなものを含めて600点程発見され、新たに色絵窯(赤絵窯)の構築部材が出土。これにより、山辺田遺跡が近接する山辺田窯の工房跡であることが確実となりました。
有田の窯跡からはこれまでも色絵磁器片が発見されていますが、有田町歴史民俗資料館の村上伸之氏によると、山辺田窯跡・山辺田遺跡は有田において登り窯跡と工房跡が一括して発見された唯一の例であるとし、特に色絵製品の製造を裏付ける色絵窯についての発見はこの調査で得られた大きな成果と言えます。また、村上氏は工房跡の範囲が大まかに判明したことで、おそらく山辺田遺跡には最大30前後の業者の工房があり、300人程の職人が働いていたとも推測されています。工房だけでなく住居も兼ねていたとすると、家族も含め、相当数の人々が生活を営み、窯業に従事していた場所とも考えられます。
今年3月に行った有田研修(とぐりのぶろぐ(
http://toguri.exblog.jp/23121104/))ではもちろん山辺田窯跡も見学し、山の斜面に登り窯の階段状の跡を僅かにうかがうことができました。その麓に広がる遺跡の景色を思い出し、約260年前、同じ場所で多くの職人たちが伊万里焼の製造に心血を注ぎ、今日見られるような名品の数々を生み出していたことを想像すると、非常に感慨深いものがあります。
今展では、山辺田窯同様に17世紀中期に稼働した“楠木谷(くすのきだに)窯”(第1展示室)・“丸尾(まるお)窯”(特別展示室)について窯跡出土陶片と共に紹介するコーナーを設けております。古九谷様式の名品とあわせて、それらを生み出した窯場についても理解を深めていただけましたら幸いです。
「古九谷展」は9月23日(水・祝)まで開催致します。皆様のお越しを心よりお待ちしております。
(竹田)
(参考文献)
「佐賀県有田町山辺田古窯址群の調査」有田町教育委員会 1986年/矢部良明ほか「角川日本陶磁大辞典」角川書店 2002年/村上伸之「有田における古九谷の生産技術」『古九谷展』図録 出光美術館 2004年/村上伸之「初期伊万里から古九谷へ 高級磁器生産の技術基盤と生産制度の確立について」『徳川将軍家の器』千代田区立日比谷図書文化館 2013年/村上伸之「季刊 皿山 通巻106号」有田町歴史民俗資料館 2015年
※1胎土目積み・砂目積み…学芸の小部屋4月号参照(
http://www.toguri-museum.or.jp/gakugei/back/2015_05.php)
※2染付 山水文 皿 伊万里 江戸時代(17世紀前期)口径34.7㎝(第3展示室出展中)
※3色絵 葡萄鳥文 輪花皿 伊万里(古九谷様式)江戸時代(17世紀中期)口径34.5㎝(第1展示室出展中)
※4色絵 瓜文 皿 伊万里(古九谷様式)江戸時代(17世紀中期)口径44.5cm(第1展示室出展中)