吹く風も涼しく秋めいてきた今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
戸栗美術館では、10月6日(火)より「柿右衛門・古伊万里金襴手展」を開催致します。17世紀後半から18世紀前半にかけて、伊万里焼の海外輸出が盛んに行われた時代に展開した2つの様式の名品、約80点をご紹介する展示となります。ご期待くださいませ。
さて、今月の学芸の小部屋では、“柿右衛門様式※”という伊万里焼の一様式にその名が取り入れられた名工“酒井田柿右衛門”と、柿右衛門が率いた“柿右衛門窯”について取り上げます。
まず、酒井田柿右衛門とは、江戸時代より文献にその名が残る伊万里焼の名工といわれる人物。河津吉迪(かわづよしみち)の記した「睡余小録」(文化4年(1807)刊行)には、17世紀後半につくられた伊万里焼の婦人像(参考右図・今展出展品)の出来栄えを称えると共に「伊満里柿右衛門の造るところにて…」と、その作者に柿右衛門の名前が登場します。全ての製造工程を分業制で行う伊万里焼において、このように陶工の個人名が文献中に記される例は珍しく、伊万里焼の名工として酒井田柿右衛門の名が世間一般に広く知れ渡っていたことがうかがえます。
では、その酒井田柿右衛門とは一体どのような人物だったのでしょうか。初代の柿右衛門はまたの名を喜左右衛門と言い、武家の生き残りである父・弥次郎の下、慶長元年(1596)に肥前・白石に生を受けました。成人の頃には既に窯業に携わっていたとみえ、後に有田に移住して本格的に磁器製造に携わることとなりました。この初代の残した最大の功績として、伊万里焼における色絵技術の創始が考えられています。酒井田家に伝わる文書「赤絵初りの覚」によると、色絵の技術は商人東嶋徳左衛門が中国人に礼銀を支払い伝授され、初代が年木山(楠木谷窯)にいた頃に試行錯誤の末、こす権兵衛と共に成功させた、とあります。この色絵技術の創始によって、伊万里焼は染付の青1色の世界から中国陶磁に倣った鮮やかな色絵磁器の世界が広がることとなり、17世紀中期、その技術・意匠は共に大きな進歩を遂げました。また、1650年代後半頃には初代によって金銀彩の技術も始められ、以降、金彩は伊万里焼の定番の装飾技法として長く使われることとなりました。初代柿右衛門は、寛文6年(1666)に亡くなったと言いますが、初代の果たした伊万里焼の発展に対する多大な貢献から、酒井田柿右衛門率いる柿右衛門窯は藩からの御用品の注文を受けたり、特別に藩主への御目見えが許されたりと、他窯に比べ優遇された立場であったと考えられています。
初代の後を継いだのは、息子である2代・3代柿右衛門。彼らが活動したと考えられる楠木谷窯では、端正な器形に鮮やかな色絵をのせた優品が数多く製造されています(参考右図:今展出展品)。1660年代頃には、柿右衛門の率いた窯場は有田南西部の南川原山へ移ったと言います。丁度この頃、伊万里焼はその生産体制を本格的な海外輸出へとシフトさせ、主な輸出先となった西欧の人々の嗜好に合わせた、白磁に赤を主体とした色絵と金彩が映える製品を生み出しました。柿右衛門窯の製品についても、英国伝世品の中に柿右衛門窯出土陶片の類品が見られることから、輸出品として用いられた可能性が指摘されています。
近代の調査・研究であらわされた酒井田家の系図によると、1670年代は4代・5代柿右衛門の時代。
この頃、柿右衛門窯において“濁手素地(にごしで)”が生み出され、柿右衛門様式が成立したと考えられます。濁手は、鉄分を極力取り除いた原料を用いた素地に極薄く透明釉をかけて焼き上げたもので、色絵顔料がよく映える乳白色の色絵専用素地でした。柿右衛門窯製の典型作では、型を用いた端正な器形の濁手素地に、繊細な筆致で明るい色調の色絵が施され、所々に控えめな金彩による装飾が施されています(参考右上図・今展出展品)。また、柿右衛門窯跡からは濁手素地以外に染付素地も出土しており、当館所蔵品の中にもその類品をみつけることができます(参考右下図・今展出展品)。
柿右衛門が活動した窯は、1680年代頃に南川原山の柿右衛門窯が廃窯した後、同地区の南川原窯ノ辻窯に移ったと考えられています。ちなみに、南川原窯ノ辻窯からは高台畳付に「酒柿」銘を記した陶片が出土しており、同銘を持つ当館所蔵の「染付 河骨鶴文 輪花皿」(江戸時代(19世紀前半)口径41.2㎝・右図)のように、この時代の柿右衛門家との関連性をうかがわせる製品も残されています。この頃の柿右衛門家製品は、高級志向から量産を重視したことで品質の低下がみられると言います。また、17世紀後半の輸出製品の花形であった“濁手”の技術も既に失われていました。近代に至り、17世紀後半に製造された柿右衛門様式のうつわや酒井田柿右衛門家について調査・研究が進み、昭和24~25年(1949~50)頃より始められた12代・13代柿右衛門の取り組みにより、”濁手”の技術は復興が果たされます。昭和46年(1971)には、その技術が後世へと継承すべき「重要無形文化財(濁手)」として指定を受けました。
“酒井田柿右衛門”の名は現代へと世襲され、当代は昨年襲名された15代目となります。当館は、14代柿右衛門氏の時代から親しくさせていただき、2012年4〜5月には戸栗美術館開館25周年記念“柿右衛門展”を開催、歴代柿右衛門作の名品と、江戸時代の柿右衛門様式作品をあわせてご紹介致しました。今後の当館のメモリアルイヤーに際し、再び特別展を企画しておりますので、是非ご期待くださいませ。
現代へと受け継がれた柿右衛門スタイルの源流と言える、江戸時代、17世紀後半に人々を魅了した柿右衛門様式の名品は10月6日(火)より開幕致します「柿右衛門・古伊万里金襴手展」にてご覧いただけます。皆様のご来館を心よりお待ちしております。
(竹田)
(参考文献)
酒井田千明「柿右衛門窯の歩み—歴代柿右衛門とその作品—」『柿右衛門—受け継がれる技と美—』図録 九州国立博物館 2015年/村上伸之「古九谷様式からから柿右衛門様式へ」『九州産業大学柿右衛門様式陶芸研究センター論集第2号』九州産業大学柿右衛門様式陶芸研究センター編集委員会 2005年/矢部良明ほか「角川日本陶磁大辞典」角川書店 2002年/鍋島直紹「柿右衛門」 株式会社金華堂 1957年
※柿右衛門様式…17世紀後半、佐賀・有田地域で生産された海外輸出向け色絵磁器の総称。国内の伝世数が少なく、古くはその全てが酒井田柿右衛門個人およびその柿右衛門窯の作と考えられ、その名を冠し“柿右衛門様式”と呼ばれていた。戦後、西欧に所在する伊万里焼の調査が進み、江戸時代に膨大な数の製品が輸出されていた事実が明らかとなり、日本への里帰りも盛んに行われた。あわせて、類似する色絵磁器片が柿右衛門窯だけでなく有田町内の赤絵町遺跡からも大量に出土したことから、柿右衛門様式の色絵磁器は柿右衛門個人やその窯に限らず、17世紀後半の有田地域において数多くの陶工・窯場が製作に携わっていたものと考えられるようになった。近年では、1670〜90年代に製造された伊万里焼の一様式として捉えられている。