秋風が快い季節になりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。戸栗美術館では9月15日(金)より『18世紀の古伊万里-逸品再発見Ⅱ-展』を開催しております(~12月20日(水))。17世紀初頭に誕生し、技術革新を経て、17世紀後半には製造技術が最高潮に達した伊万里焼。続く18世紀では、伊万里焼の使用者の幅が広がり、使う人の経済力に合わせた幅広い製品が生み出されました。今展では、絢爛な金襴手のうつわから、生活に馴染む染付のうつわなど約80点を展示しております。前回展に引き続き、皆様のお気に入りの逸品をお探し下さい。
さて18世紀の色絵と言えば、古伊万里金襴手様式です。古伊万里金襴手様式とは染付の素地に上絵の赤や金などを施した装飾様式のこと。この金彩が眩いうつわは18世紀に国内のみならず西欧でも流行しました。その輸出された伊万里焼と国内に流通したそれとを見比べると、特徴の違いがあることに気がつきます。出展作品からそれぞれご紹介します。
1点目は「色絵 花鳥文 皿」。輸出向けに作られた大皿です。見込みには牡丹を生けた花瓶と双鳥。赤と金で賦彩された満開の牡丹が華やかです。口縁の六方に設けられた窓枠には、牡丹唐草文と蝶文が交互に配され、枠内を塗り埋める染濃(そめだみ)や上絵の黒が全体を引き締めています。裏面は三方に折枝梅文を描くのみです。
2点目は「色絵 壽字宝尽文 鉢」。国内向けに作られた鉢です。見込みに大きく壽字。周囲の桃形窓には宝文の間に桃と仏手柑を交互に描いています。窓の周りは濃い染濃地に金彩による装飾。外側面は赤玉を四方に配し、花唐草文と葉文でつないでいます。壽字に宝文、桃、仏手柑といった吉祥文様と金彩の輝きが相まって非常におめでたい雰囲気を醸しています。
それでは、この2作品を例にあげて特徴の違いを見ていきましょう。
まず、最も大きな違いとして、うつわの大きさがあげられます。「色絵 花鳥文 皿」の口径は「色絵 壽字宝尽文 鉢」の2倍以上です。輸出された伊万里焼は、口径が60㎝近い大皿や大鉢、高さ80㎝に迫る大壺など大型のものが目立ちます。これらの大型品は、ポーセリン・キャビネットと呼ばれる室内全体に磁器を飾った磁器の間を飾る室内装飾品として使用されていました。
一方、国内向けの製品は、食器が中心でした。実際に茶会の記録には、茶懐石に金襴手のうつわを用いた記録も残されています(※1)。そのため、輸出品のような大型のものは見られません。
次に絵付け方法についてです。「色絵 花鳥文 皿」は、文様も大きく、所々に線や色のはみ出しがみられ、その筆致は軽やかです。対して、「色絵 壽字宝尽文 鉢」は全体の文様が緻密で丁寧に描かれています。輸出向けに見られるようなはみ出しも見られません。線の太さも均一で、ぞれぞれの空間に整然と文様が収まっています。
この絵付けの違いは前述の西欧と日本とでのやきものの使い方の違いに起因します。西欧の邸宅は天井が高く、壁面や台の上などに磁器を飾り、少し離れたところから楽しまれていました。そのため、遠くから見るので多少のはみ出しなどは気になりません。むしろ、遠くからも目立つように、大振りに文様を描いたやきものが求められたのだと考えられています。一方、国内向けのうつわは、人の手元で用いられたため、近くで見た時に美しいように、細やかな文様を丁寧に描いてあります。
最後に、裏面にも違いがみられます。「色絵 花鳥文 皿」は、表面の華やかさとは対照的に裏面は三方に折枝梅文が描かれているのみです。「色絵 壽字宝尽文 鉢」は、外側面にぐるりと赤玉と花唐草文、葉文が描かれており華やかです。これも、壁面や壁際などにうつわを飾った西欧と、うつわを手元に置いて使った日本との違いが表れています。西欧では壁に飾ってしまうと、裏面は見えません。生産コストを下げるために見えない部分は簡素化したのでしょう。一方、日本では外側面も人の目に触れるため、外側まで丁寧に文様が描かれました。
以上のような特徴が、輸出品、国内品にはあります。この違いを見ると、伊万里焼が消費地での用途に寄り添って作られていたことがよく分かります。
輸出品、国内品という色絵の作り分けは伊万里焼の中でも古伊万里金襴手様式にのみ顕著にみられます。しかし、伊万里焼の輸出は1640年代から始まり、公式貿易の記録では17世紀後半にあたる柿右衛門様式の時代に最も多く西欧へ輸出されました。それにも関わらず、なぜ柿右衛門様式ではなく、古伊万里金襴手様式に移行してから、国内向けと輸出向けが作り分けられるようになったのでしょうか。
その要因の一つと考えられるのが中国・清朝による磁器輸出の再開です。磁器の輸出大国あった中国は17世紀半ば頃、王朝交代による内乱によって、輸出が停滞します。そこで、それまで中国磁器を大量にヨーロッパへ運んでいたオランダ東インド会社が、代わりに目を付けたのが伊万里焼でした。
伊万里焼の輸出草創期は、技術が未熟でしたが、オランダ東インド会社の要求に応える内に向上していきます。そして、17世紀後半、技術が頂点に達したのが柿右衛門様式の時代です。この時、海外に大きな市場を持った時代背景からして伊万里焼の生産は国内ではなく輸出に大きく比重が置かれていたと考えられており、柿右衛門様式では輸出向けと国内向けの作り分けがあまり見られません。
しかし、そのような時期は長く続きませんでした。1684年、中国が輸出を再開し、中国磁器と伊万里焼との間で市場競争に陥ります。そこで、柿右衛門様式から国内の富裕層の間で好まれていた金彩のうつわに輸出磁器の主流を移行していきました。大量に低価格で磁器を焼造する中国に対抗して、コストを抑え、量産化を図るためです。しかし、こうした工夫は凝らしたものの、残念ながら海外市場は中国が優勢のままで、オランダ東インド会社からの公式の注文は柿右衛門様式の時代に比べ落ち込んでしまいます。こうした中で、伊万里焼は国内市場へと目を向けていきました。
つまり、17世紀後半の段階では、色絵の生産と流通は国内市場に比べて輸出に重きが置かれたようですが、続く18世紀に輸出量が減少する一方で、国内の色絵の流通は拡大します。ちょうど、社会の安定と経済の発達により好景気を迎えていた国内では、金襴手のうつわの需要が高まっていました。こうして、輸出事業を継続しながらも国内市場が成長したことで、それぞれの需要に合わせた色絵が作られたために輸出向け、国内向けといった特徴の異なる古伊万里金襴手様式の伊万里焼が作られたのだと考えられます。
この輸出品と国内品を分けて作っていた期間は古伊万里金襴手様式の盛期とされ、最も華やかな伊万里焼が作られた時期となります。西欧へ輸出された古伊万里金襴手と国内に流通した古伊万里金襴手。それぞれ違う国の違う目的に応じて作られたうつわが、現在では、同じく美を認められ、等しく並べ飾られているという事実が感慨深く思われます。是非、盛期の圧巻の輝きをご覧下さい。両作品及び古伊万里金襴様式の作品は、第一展示室入って正面のレーンを中心に展示してございます。皆様のご来館を心よりお待ちしております。
(青砥)
※1 山科道安(1677-1746)の日記『槐記』に享保13年(1728)2月11日の茶会で「金襴ノ手ノ伊萬利焼」、享保16年(1731)2月23日の茶会で「赤絵金襴ノ手」が用いられた記述がみられる。
【参考文献】
『柴田コレクションⅣ-古伊万里様式の成立と展開-』 佐賀県立九州陶磁文化館 1995
矢部良明 『古伊万里・金襴手展』 読売新聞西部本社 1997
大橋康二 『海を渡った古伊万里セラミックロード』 青幻舎 2011
小木一良・村上伸之 『華麗・絢爛の美 古伊万里金襴手作品』 2016