立春も近づき、本格的な春が待たれるこの頃。皆さまいかがお過ごしでしょうか。伊万里焼に施された釉薬に注目した今展。江戸時代の肥前で主に用いられた釉薬には、透明釉・青磁釉・瑠璃釉・銹釉の4色があげられます。今回の学芸の小部屋では、その中から瑠璃釉についてご紹介いたします。
瑠璃釉とは透明釉を基礎とし、そこに呈色剤として呉須(酸化コバルト)を混ぜることで、藍色を呈する釉薬。呉須は染付にも使用される絵具ですが、染付の場合は釉下に青色があるのに対して、瑠璃釉では釉自体に青色がついているという点で異なります。
天神森窯跡や小溝下窯跡といった1630年代頃まで稼働していた窯から瑠璃釉の陶片が出土していることから、伊万里焼での瑠璃釉の使用は、1630年代以前に始まったと考えられています。
17世紀前半の瑠璃釉の作品は、発色が淡かったり、呉須の成分が釉中に青く点々と浮いているものも見られ、宝石である瑠璃の色とは少し遠い印象です。透明釉と掛け分けたものや、瑠璃釉下に染付で文様を描いたものなどが作られました。それが17世紀中期、技術革新によって製陶技術が高まったことで、瑠璃釉にも鮮やかな発色が見られるようになり、深い藍色をあらわすようになります。そして、この頃より、釉そのものの美しさを生かすかのように、瑠璃釉のみを総掛けした作品が増えていきました。
その17世紀中期の作例として、今回は「瑠璃釉 瓢形瓶」をとりあげます。瓢箪形の器体に白泥を曲線上に施して盛り上げた堆線により、あたかも器体が捻れているかのようです。堆線部分は釉層が薄く、素地が透けており、白く際立った堆線と釉色の濃淡によって器形が強調されています。釉薬によってうつわの造形がより引き立った作品です。
こうした捻ったような装飾を施した瓢形瓶は、中国の明朝末期に景徳鎮窯で作られ、日本では「祥瑞(しょんずい)」とよばれる、日本の茶人向けの作品群に見られます。また、祥瑞には瑠璃釉を総掛けした「瑠璃祥瑞」と呼ばれるものもあることから、本作は器形や装飾の面で祥瑞を模して作られたものでしょう。
こうした作品が作られた背景には、単に国内で人気だった中国磁器を参考にしたという他に、中国磁器の入手が難しくなった影響も考えられます。17世紀中期の中国は王朝交代による内乱のため磁器輸出が減少し、日本でもほとんど輸入できなくなってしまいました。そうした状況下で、伊万里焼では本作をはじめ瑠璃釉の瓢形瓶が複数作られていることから、中国磁器の代替品として、伊万里焼に祥瑞を模倣した作品が求められていたとみられます。
瑠璃釉の作品には、釉色を生かした作品の他に、釉上に金銀彩を施したものもあります。そうした作品は17世紀後半より作られました。その中から、今回は「瑠璃釉金銀彩 猩猩文 瓶」をご紹介します。筒型の瓶に凹凸をつけて竹節をあらわした器体に瑠璃釉が施されています。そこへ金銀彩を用いて三方に配した窓に山水・尾長鳥・猩猩文(※1)を描き、窓の周りは細かな唐草文で描き詰めています。猩猩の顔や手、握られた柄杓などに金彩が使用されていますが、画面の大半は銀彩によって描かれたものです。
磁器に金銀彩を焼き付ける技法は、後述する通り、1650年代末頃までに登場します。しかし、銀彩は時間が経つと黒ずんでしまうためか、1670年代にはほとんど使用が見られなくなりました。そのため、銀彩が用いられている本作はこのわずか十数年ばかりの間に作られた作品といえます。
本作も例に漏れず、画面の大部分を占める銀彩は酸化し、黒ずんでいます。しかしよく見ると、黒い銀彩の中にまだ輝きを残した部分を見つけられ、17世紀後半の銀彩が施された作品としては保存状態が良い作品です。おそらく、作られた当初は全体にめぐる銀彩が煌めき美しかったことでしょう。それが、時を経る中で落ち着いた面持ちへと変わっていますが、藍色を背景に銀彩が点々と光る姿は、夜空に星が輝くような景色を生んでいます。瑠璃釉が銀彩の輝きを引き立てており、釉薬と装飾が調和した作品です。
中国の磁器輸出の停滞に影響を受けていたのは、日本だけでなく、西欧の国々もでした。そこで、西欧でも中国磁器の代替品として、伊万里焼が求められるようになります。特に、1659年より伊万里焼の海外輸出は本格化し、多くの磁器が西欧へと運ばれました。その前年、1658年に柿右衛門は金銀彩を用いた品を二代藩主鍋島光茂に献上し、その後はすぐに長崎で販売したといいます。併せて、長崎から輸出された磁器の記録では、1659年より金銀彩を使用したものが登場し、金彩や銀彩、あるいは両方を用いた様々な器種が輸出されています。金銀彩という新技術がすぐに輸出品に取り入れられているのをみるに、金銀彩の技術開発は本格化する海外輸出を見据えての新たな商品開発の一環だったのでしょう。
とりわけ瑠璃釉と銀彩を組み合わせたものについては、オランダ商館長ワーヘナールが1659年の商館長日記に「わたくしは自分の創意で祖国向けの見本としてバタヴィアに持参するため、瑠璃地に小さな銀の唐草文をあしらった特殊な磁器約200個をある人に注文しました。しかし、どこの街角や店先にもそれらが売られており、それは野の草花のように平凡なものとなっていた…」と記しており、彼が先駆けて瑠璃釉に銀彩を施したうつわに注目したことと、そうしたうつわが人気を得たためか一挙に広がった様子が窺えます。瑠璃釉に銀彩を施したデザインは西欧人好みだったようです。
両作品は、どちらも瑠璃釉を総掛けにした作品ですが、釉薬によって「瑠璃釉 瓢形瓶」は器形の、「瑠璃釉金銀彩 猩猩文 瓶」は釉上の装飾の魅力をより高めています。また、「瑠璃釉 瓢形瓶」は中国磁器の輸入が難しくなったことの影響を受けて、「瑠璃釉金銀彩 猩猩文 瓶」は西欧への本格的な輸出事業が進む中で作られました。染付や色絵など文様や色彩が賑やかな伊万里焼の中では、ついつい瑠璃釉という枠の中でひとくくりに見られてしまいがちですが、瑠璃釉の使い方に注目すると、装飾方法や瑠璃釉の効果には様々なものがあり、それぞれに製作の背景があることが分かります。
今展では、多様な瑠璃釉の作品を一堂に展観しております。瑠璃釉を特集したレーンは第一展示室の入って右手に、「瑠璃釉 瓢形瓶」は第二展示室単体ケースにございます。同じ釉薬でも、時代によって様々な装飾方法や効果があることに注目していただければと思います。
(青砥)
※1 猩々文:猩猩(しょうじょう)とは中国の伝説上の生き物。日本では能の演目として有名で、霊獣として登場し、親孝行な高風という人物に汲めども尽きぬ酒甕を与えるという。その他にも歌舞伎や長唄など各種芸能で題材とされる。
【参考文献】
「古伊万里の見方」vol.1 佐賀県立九州陶磁文化館 2004年
古九谷 財団法人出光美術館 2004年
色絵の煌 古九谷 大阪美術倶楽部 2008年