明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
新年のはじめにご紹介いたします作品は、上品なたたずまいの「青磁 花文 水注」。真っ白な素地に厚く掛けられた深い青緑色の釉調が特徴の鍋島青磁(青磁の鍋島焼)の作品です。下膨れの玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい)形の胴部に、把手(とって)と華奢な注口がつき、注口と肩部の間には支柱が付けられています。このような器形の水注は、日本では「仙盞瓶」(せんさんびん)と呼ばれており、鍋島焼としては非常に珍しい作例です。
そもそも、鍋島焼とは、江戸時代に肥前国佐賀地方を治めた佐賀鍋島藩が徳川将軍家に献上することを目的に創出した特別な磁器です。伊万里焼の生産で知られる佐賀鍋島藩領内の有田から一山越えた伊万里・大川内山に築かれた藩窯で、有田から集められた優秀な陶工によって焼造されました。鍋島焼と言えば、最も多いのは皿類。八代佐賀鍋島藩主・鍋島治茂の記録である『泰国院様御年譜地取』には、明和7年(1770)の将軍への例年献上の内訳が「鉢二、大皿二十、皿二十、小皿二十、茶碗皿・猪口此内二十」とあり、鉢(現在でいうところの尺皿)以下小皿まで、82点の献上品のうち、62点が皿類で占められていることから、例年献上の基本は皿類であったことがうかがえます。
それでは、皿類以外のものが焼かれていなかったかというと、そうではありません。大川内鍋島藩窯の発掘調査では、皿類のみならず、猪口や鉢、香炉、花生など、様々な器種の陶片が出土しました。本作のような仙盞瓶は、出土品こそ発見されていませんが、本作のほかに色絵の伝世品が一点知られています。
また、鍋島焼の仙盞瓶については大変興味深い文献史料が残されています。四代佐賀鍋島藩主・鍋島吉茂の記録『吉茂公御年譜』享保11年(1716)6月17日の条に、幕府御台所御頭人の小林貞右衛門より、佐賀鍋島藩の江戸留守居役が呼ばれ、「公方様御望ノ品、センサン瓶二御盃四ツ御銚子六ツ焼立」を命じられた、とあります。もっとも、これは例年献上の品としてではなく、内々の御用のものであるので、町人(有田)から調達しても良い、とのことでしたが、公方様(将軍/八代将軍徳川吉宗)から仰せつかった大事な御用のため、大川内山で請け負うこととなりました。そして、翌年正月6日には命じられたものと、余分に用意しておいた「センサン瓶一ツ御盃三ツ御銚子三ツ」が幕府側へ届けられました。16日には老中の水野和泉守に佐賀鍋島藩の江戸留守居役が呼ばれ、非常によくできており、将軍も大変喜んでいる旨が伝えられます。さらに、17日にはいずれも将軍の居間の床の間に飾られている旨が伝えられ、わざわざ大川内山の役人や細工人の人数が確認され、褒賞として銀子が出されることとなりました。
さらに、大川内山の窯元に残された史料には、年代は不詳であるものの、「御用釜」の窯詰めの記録に、大鉢や大皿、煎茶碗などとともに「仙盞瓶四本」の文字が見えます。これらの記録から、大川内山で仙盞瓶が作られた実績があることは間違いありません。
なお、享保11年の将軍からの御用注文の記録中には、作るにあたって参照すべき絵形や木形が用意されたとありますが、残念ながらそれらは現存せず、詳細は不明。この時の仙盞瓶がどのような形状・意匠であったかは明らかではありませんが、先の色絵の伝世品が該当するのではないかと考えられています。ただし、その注文が出される数か月前、幕府から佐賀鍋島藩に向け、鍋島焼に関する重要な指示書が出されました。同じく『吉茂公御年譜』享保11年(1716)4月の条をみてみますと、「例年御献上陶器」(鍋島焼)の「色立」、つまり色遣いについて、これまでは様々なものがあったけれども、以降は「浅黄幷花色」(水色と青色、つまり染付)を差し上げるように、なおかつ「青地」(青磁)はこれまで通り差し上げること、とあります。この指示書が出された元禄年間(1688~1704)頃まで作られ続けてきた色鍋島(色絵の鍋島焼)は、これ以降作られなくなり、鍋島焼は染付や青磁、あるいは青磁染付を基本としていきました。ちょうどこの享保11年に八代将軍に就任した徳川吉宗による、倹約令の一環と考えられています。これらの史料、そして本作の存在を鑑みると、大川内山では仙盞瓶が繰り返し焼造され、中には青磁も作られたと考えらます。
さて、このように将軍も欲するようなものであり、大川内山で繰り返し製作されていた仙盞瓶は、もともと中国でつくられていたもの。元末明初の景徳鎮窯では青花(せいか/染付と同義)、龍泉窯では青磁のものがしばしば焼造されていました。明時代の龍泉窯青磁の仙盞瓶が古く日本にもたらされ伝世している例もあり、本作と比べると、厚く掛かった深い青緑色の釉調や、ラッパ状に広がる頸部、蔓草状とした支柱などが共通した特徴として認められます。鍋島青磁には、とりわけ龍泉窯青磁の影響が色濃くあらわれていると言えるでしょう。
ただし、鍋島焼では龍泉窯の青磁をそのまま模倣するのではなく、独自の表現を追求しています。本作は側面から見ると胴部が扁平で、面取りが施され、また口部を上から見ると木瓜形としているのが特徴ですが、このような器形の仙盞瓶は中国陶磁には見当たりません。なおかつ、胴部二面にあらわされた如意頭形窓とその内の花文は、龍泉窯青磁の仙盞瓶に見られる陰刻技法によるものではなく、陽刻で表現されています。単なる模造を越えた作品づくりを目指す姿勢に、伝統的に評価されてきた中国陶磁をも凌駕しようとする鍋島焼の創造性が感じられます。
ところで、このような全くの模造でないやきものづくりは、鍋島焼の技術の基盤ともいえる伊万里焼でも初期から行われてきました。初期伊万里は当時の日本で流行していた中国陶磁、とくに古染付(こそめつけ)や祥瑞(しょんずい)といった明末の景徳鎮民窯(けいとくちんみんよう)の青花に意匠の着想を得ている例が多々見受けられます。しかし、完全なる模倣ではなく、器形や意匠などどこか異なる特徴をもつものとしてあらわれてくるのが興味深いところ。そのような中国陶磁と初期伊万里の関係性に着目した展覧会『初期伊万里―大陸への憧憬―展』が、1月8日から開催されます。龍泉窯青磁を意識しつつも、それを超えるものを作ろうとした鍋島青磁の仙盞瓶を、江戸時代の日本人の中国陶磁への憧れを新たな日本のやきものとして昇華した初期伊万里の数々とともにご覧いただければ幸いです。
(黒沢)
(註)『大川内山金武家所蔵 鍋島藩窯文書』伊万里市歴史民俗資料館1997
【参考文献】
前山博『鍋島藩御用陶器の献上・贈与について』同1992
中澤富士雄・長谷川祥子『中国の陶磁 第八巻 元・明の青花』平凡社1995
今井敦『中国の陶磁 第四巻 青磁』平凡社1997
鍋島藩窯研究会『鍋島藩窯 出土陶磁にみる技と美の変遷』同2002
佐賀県立九州陶磁文化館『将軍家への献上 鍋島 日本磁器の最高峰』同2006