暦の上では春目前、暖かな空気が恋しい季節でございますが、皆様お変わりございませんでしょうか。
現在、戸栗美術館では『初期伊万里-大陸への憧憬-展』(3/24(日)まで)を開催中。朝鮮半島の技術を元にその生産が始まった、日本初の国産磁器である伊万里焼の初期の作例について、当時一大磁器産地であった中国の影響を踏まえながら、その魅力をご紹介しております。
さて、今月の学芸の小部屋では、「色絵 花文 角皿」を取り上げ、その窯詰め方法についてみていきます。
まず、窯詰めとは、成形した器物を窯内に運び込み、並べること。そして、窯詰めの時に使用する専用の道具を窯道具といい、I字型のトチンや皿状のハマなど、窯道具の上にうつわを置くタイプ、サヤと呼ばれる箱形で中にうつわを入れて使うタイプなどがあります。
窯詰めは、うつわをただ置いていけばいいということではありません。例えば、うつわに掛かっている釉薬は、窯の中で溶けて冷え固まることでガラス質となるため、うつわと窯道具が接する部分の釉薬を剥いでおかなければ熔着してしまいます。そうした製作上の都合やうつわの器種、器形や大きさ、厚み、製品ランクなどにも配慮しつつ、火のあたり具合などを考えながら、窯道具を駆使して、限られた空間のなかで如何に効率よくうつわを運び込めるかが重要になります。
前置きが長くなってしまいましたが、「色絵 花文 角皿」をみていきましょう。本作は幅広に折り返した四方形の鐔縁を隅切とした角皿。当館には5客揃いで伝世していますが、それぞれ多少の歪みはあるものの、ほぼ同形同寸であること、器壁が見込から口縁にかけて段々と薄くなる轆轤(ろくろ)挽きをしたうつわの特徴を持つことから、型打ち成形によって複数枚同時に作られたとみえます。見込に環状の蓮弁文、四隅に七宝唐草文をあらわし、その玲瓏な磁肌の白に上絵の青や黄、赤、緑、黒が映える印象深い作例です。しかし、見込の蓮弁文の縁をよく見ると釉薬が掛かっておらず、その絵付け部分は露胎となっていることに気が付きます。
このように見込の釉薬を円状に剥がすのは、複数のうつわを重ねて窯詰めして本焼き焼成するためであり、窯道具を使わずに一度に大量に焼成できることから、量産に適した方法として17世紀半ばより肥前地域でしばしば使用されました。この方法の特徴は、釉薬によるうつわ同士の熔着を防ぐために上に積むうつわの畳付が当たる見込部分の釉薬を剥ぐということ。本作も、重ねたときに見込の釉剥ぎ部分と畳付が合致することから、重ね積みにて焼成され、さらに見込の露胎部分に上絵付けが施されたものとみえます。
こうした、量産を見据えての窯詰め方法が登場したのには、それらが作られた時代背景を見ていく必要がありそうです。伊万里焼は17世紀の初めに日本初の国産磁器として誕生した、当時としては先駆的な商品でした。上流階級の人々や輸出先の外国人、そして富裕な町人など時代毎に需要層の求めに応じて製作された伊万里焼は、次第にその生産量を増加させていきます。
そのようななか、有田の窯場で17世紀後半に一時的に登場する窯道具を使わずに積み上げて焼成する方法は、窯道具を積み込む手間を省き、さらに、道具を入れない分、限られた窯のスペースを最大限に活かすことができるものでした。まさに、スピーディーかつ大量に生産したいときにはとても有効な、量産に特化した窯詰め方法といえましょう。
この頃、海外輸出が盛んになり、特に乳白色の濁手素地に赤を主体とした左右非対称の構図の絵付けを施す柿右衛門様式の伊万里焼は、西欧の王侯貴族の居城を飾りました。こうした最高級品が西欧での需要に応じる一方で、国内需要も平行してこなすためにも、様々なランクの製品を作る必要がありました。見込を円状に釉剥ぎした重ね積みの方法は製品そのもののコストダウン、ないしは増加した需要に応えるために、大量に生産できる方法をとった結果と考えられます。
こうした大量焼成のうつわですから、製品ランクは落ちたものとみえ、基本は簡略な絵付けの染付が多く、主に日用雑器として使われました。そうした製品では、釉剥ぎによる見込の露胎部分をそのままに出荷したようです。とくに17世紀後半以降の長崎・波佐見の窯場では「くらわんか手」と呼ばれる安価な日用食器を大量に生産・出荷しており、その染付皿や青磁皿に蛇の目釉剥ぎが複数確認できます。
そのようななか、本作のように上絵付けを施しているものも、一定数確認できます。そもそも上絵付けは本焼き焼成の後、高価な上絵付け用の顔料で絵付けを施し、さらに絵具を焼き付けるために窯を焚かなければなりません。つまり、上絵付けが施されているだけで本焼き焼成の段階で完成する染付のうつわよりも高級品と見なされます。これを踏まえると、本焼きまではコストを最小限に抑えて、上絵付けを施すことで箔をつけて値段を上げて販売し、より効率的に利益を上げようとした、というのも考えられそうです。
また、見込の露胎部分を補うという点でも上絵具は適した素材です。釉薬によるガラス質の膜は耐水性をもたらし、うつわを清潔に保つ役割があります。上絵付けに使用する絵具はまさにガラス質のもの。とくに赤と黒以外の色は焼成すると一枚の色ガラスのようになるため、釉薬より脆いとはいえ剥いでしまったものの代わりに、実用面においても露胎部分をカバーすることができます。つまり生産時についてしまったキズを隠すための上絵付けでもあるのです。生産効率を重視した重ね積みの窯詰め方法は、安価な大量生産品から単価を極力下げた色絵磁器まで、それぞれの窯場のターゲット層に合わせて活用されていたようです。
さて、こうした製品を重ねて焼くという発想は、
朝鮮半島からもたらされたものでした。とくに、豊臣秀吉の朝鮮出兵により、日本に連れ帰られた陶工たちによってその技術が伝えられた伊万里焼草創期の作例には、朝鮮半島の窯詰め技法がみられます。出土品からその様相がわかりやすいのが、目積みの技法。粘土を丸めたもの(胎土目)ないしは、砂分の多い団子状のもの(砂目)を、うつわとうつわの間に挟み込んで、釉薬の熔着を防ぐもので、16世紀の朝鮮半島で行われていました。
しかし、憧れの中国風の磁器を求める傾向は強く、初期伊万里のなかにも、16世紀後半から17世紀前半に福建省漳州窯(ふっけんしょうしょうしゅうよう)で生産されていた輸出用磁器である呉須手(ごすで)にみられる円状に釉剥ぎを施して重ね積みする窯詰め方法に挑戦したものがあります。ただし、見込を釉剥ぎするだけでなく、その上から目積みの砂目を噛ませて重ねるというのは、伊万里焼ならでは。恐らく、有田の陶工たちが釉剥ぎされた呉須手のうつわを見て、より中国のやきものに似せるためにこれを真似したのでしょう。しかし、釉剥ぎの意図を理解していなかったのか、または、なにか技術的な思惑があったのか、その子細はわかりませんが、朝鮮半島と中国のうつわとうつわを熔着させないための技法が同時に施された、他に類を見ないうつわが誕生しました。
このように、誕生直後から中国磁器に強い憧れがあった伊万里焼ですから、朝鮮半島の目積みの技法は、目跡がうつわの表面に残ってしまうのをよしとしなかったためか、1640年以降は見られなくなります。そして、見込を円状に釉剥ぎして重ねる窯詰め方法は17世紀半ばに、中国・漳州窯と同じように目を噛ませずに焼成する技法として改めて登場することになるのです。
初期伊万里の時代以降も、中国からの影響を強く受け続ける伊万里焼。絵付けや形のみならず、窯詰め方法にも、類似性が見られるのは面白いことです。本作をご覧になる際には、窯詰め方法からみた中国への憧れにもご注目いただけましたら幸いです。
(小西)
※※作品・陶片画像について、特に所蔵先の記載がないものは全て戸栗美術館所蔵
【参考文献】
斎藤菊太郎『陶磁大系45 呉須赤絵 南京赤絵』平凡社1976
『シンポジウム 呉須赤絵と漳州窯系磁器-その生産・流通と日本における受容 資料』愛知県陶磁資料館・関西近世考古学研究会主催1997
村上伸之「肥前における明・清磁器の影響」(『貿易陶磁研究会No.19』貿易陶磁研究会)1999
中野雄二『波佐見焼400年の歩み』波佐見焼400年祭実行委員会1999
『寄贈記念 柴田コレクションⅥ 江戸の技術と装飾技法』九州陶磁文化館1998
『角川 日本陶磁大辞典』角川書店 2002
大橋康二『世界をリードした磁器窯・肥前窯』新泉社2004
『古伊万里の見方 シリーズ4 窯詰め』佐賀県立九州陶磁文化館2007
中野雄二『べんざらのひとりごと』波佐見町教育委員会2012
『平成25年度長崎県考古学会秋季大会資料集 波佐見・くらわんかの時代―18~19世紀の磁器生産と流通―』長崎県考古学会2013