日に日に春らしさが増していく今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。開催中の『初期伊万里―大陸への憧憬―展』では、初期伊万里にみる中国陶磁からの影響をご紹介しておりますが、今回の学芸の小部屋では、中国説話に取材した伊万里焼をご紹介いたします。
孟宗 字恭武或子恭
泪滴朔風寒 蕭々竹数竿
須臾春笋出 天意報平安
孟宗は、いとけなくして父にをくれ、ひとりの母をやしなへり。母年老いてつねにやみいたはり、食乃あぢはひもたびごとにかはりければ、よしなき物を望めり。ふゆのことなるに、竹子をほしくおもへり。則孟宗竹林に行もとむれ共、ゆきふかき折なれば、などかたやすく得べき。ひとへに天道乃、御あはれみをたのみ奉るとて、祈をかけて大きにかなしみ、竹によりそひける所に、にはかに大地ひらけて、たけのこあまた生出侍りける。
大きに喜び、則取りてかへり、あつものにつくり、母にあたへ侍りければ、はは是をしょくして其まま病もいえて、よはひをのべたり。是ひとへに、孝行のふかき心をかんじて、天道より与へたまへり。
(『御伽草子』第13冊「二十四孝」より、国立国会図書館デジタルコレクション)
上に掲げたのは、中国の孝行者(孝子)の伝記24編を集めた「二十四孝」のうち、孟宗(もうそう)という人のお話です。父を亡くし、母を養っていた孟宗は、その病の母のために、筍を求めて竹林に分け入ります。しかし、冬の雪深い竹林に筍が生えているはずもなく、大いに嘆いていたところ、突然大地が開けて、筍が生えてきました。喜んでそれを取って持ち帰り、汁を作って母に食べさせると、そのまま病も癒え、長生きしたと言います。母を思う孝行の心によって、天から与えられたものでした。
伊万里焼にも、このような孟宗譚に取材した文様がしばしば見られます。今回ご紹介する「瑠璃銹釉色絵金銀彩 筍文 皿」もそのひとつ。
轆轤(ろくろ)成形による円形皿で、見込に一段設け、口縁は鐔縁(つばぶち)としています。鐔縁と高台畳付を除く全面をやや濃い目の茶色の銹釉で覆い、一見陶器風の仕上がり。当館では5客で所蔵しており、いずれも薄く端正な器形です。丁寧に製作された皿であり、茶懐石などで向付として使われたものでしょう。
絵付けに目を移すと、最も大きく描かれているのは、銹釉の茶色と重なって黒色に近い色合いになっていますが、染付で画面左方に表現した竹。その竹の葉上にのしかかるように、やはり薄黒い絵具が部分的に散らされています。同じ絵具は、画面下方の地面にも。これらの絵具は上絵の黒と比べると光沢があることから、銀の絵具が経年変化により酸化し、黒ずんだものとみえます。つまり、本作が作られた当初は竹の葉上や地面にきらめく銀色であり、それは、まるで雪のように目に映ったことでしょう。
雪の降り積もる地面に目を凝らすと、金色の筍が数本、頭をのぞかせています。金色の絵具で三角形を描いたあと、掻き落としによって皮まで表現した丁寧な描写です。周囲には赤色の絵具で点を打って、筍の存在を強調。本作の主役は筍であると主張しているかのようです。
以上が本作の文様であり、本来の主役、孝子である孟宗はあらわされていません。つまり、「雪」と「筍」によって見る者に孟宗譚を連想させているのです。このように、物語や和歌等の主人公を敢えて表現せず、道具立てによって話や場面を連想させる手法を留守模様と言います。
本作のように、「雪」と「筍」に重きを置いた孟宗譚の表現は、日本で発展したと考えられています。そもそも、「二十四孝」とは中国各地に伝わる孝行者の説話「孝子伝」から24編を集めて編集したもの。「孝子伝」の完本として日本に伝世する陽明本を見てみると、「孟仁」譚として次のようにあります。
孟仁字恭武、江夏人也。事母至孝。母好食笋、仁常懃採笋供之。冬月笋未抽、仁執竹而泣。精霊有感、筍為之生。乃足供母。可謂孝動神霊感斯瑞也。
(幼学の会編『孝子伝注解』汲古書院2003、p148参照)
ここでは「冬月」であるという描写はありますが、「雪」の語は見えません。さらに、筍が生えてくるくだりはあっさりとしたもので、むしろ『御伽草紙』では孟宗が母の為の筍が採れずに「祈をかけて大きにかなしみ」とある部分が、「竹而泣」と涙を流すという強い感情表現であることが印象的です。
実際、中国の元・明時代や朝鮮半島の李朝時代に出版された版本では、その多くが「竹而泣」の場面を挿図としており、竹林の中で袖を目にやり、涙する文人姿の孟宗があらわされています。雪の描写のあるものは少なく、中には筍が描かれていないものも。中国や朝鮮半島の版本では「竹而泣」様子が、孟宗譚の最も特徴的な場面として取り上げられていたのです。
中国や朝鮮半島の版本は日本の室町時代に流入し、漢詩文等に深い関心を寄せる禅宗寺院の僧侶、五山僧たちを中心に広まっていきました。そして、「二十四孝」の受容とともに、日本でも絵画化の動きが出てきます。ところが、この日本における「二十四孝」の絵画化は、中国や朝鮮半島の版本の図像をそのまま模倣したものでなく、様々なアレンジが加えられていきます。孟宗譚においても、室町時代の初期狩野派の手掛けた屏風や扇子を見ると、涙する文人姿ではなく、雪中の竹林の中に鍬を持つ蓑笠姿の孟宗が。蓑笠や鍬は「孝子伝」のテキストにはなく、日本におけるオリジナルの表現です。
このように涙する文人姿から蓑笠姿の孟宗への表現の変化を考える上で重要であるのが、五山僧たち。中国文学に深い造詣を持っていた彼らは、中国の漢詩から文人と蓑笠のイメージを結び付け、また蓑笠は雪や水辺の景色に、文人や蓑笠は茅屋や竹に、というように漢詩世界の定番のイメージを接合し、それを孟宗譚に投影させることで、雪景に蓑笠姿の孟宗という新たな孟宗観を作り上げたと考えられています。
さらに、「竹而泣」と筍が見つからず孝行が果たせないことを大いに悲しみ涙する場面ではなく、突然筍が生え出てそれを掘るという奇譚に焦点を当てて図像化されていることも、大きな変化であると言えるでしょう。これは、中近世の日本において、孟宗譚は親の追善供養の場などで仏教的霊験譚として語られることによって広く一般に受容され、その過程で現世利益的な解釈が強まったためとも指摘されています。
このようにして、江戸時代の日本では母のため「雪」の降り積もる竹林の中で「筍」を得る孝行者としての孟宗観が確立され、それが刊本や仮名草子、浮世絵などを通じて人々に親しまれていきました。そして、伊万里焼においても、「雪」と「筍」を留守模様としてあらわすだけで孟宗譚を見る者に連想させることができるほど、人々に浸透していたことがうかがえます。
小さな伊万里焼に込められた数百年も前に成立した中国の説話。少しずつ姿を変えながらも、時を越え、国を越え、人々に伝わった物語をいまに教えてくれます。
(黒沢)
【参考文献】
市古貞次校注『御伽草子』下、岩波書店1986
黒田彰『孝子伝の研究』佛教大学通信教育部2001
幼学の会編『孝子伝注解』汲古書院2003
寺田瑞木「江戸初期の二十四孝図―嵯峨本『二十四孝』と渋川版『御伽文庫』「二十四孝」における図像の成立関係」『浮世絵芸術』国際浮世絵学会編集委員会2004
黒田彰『孝子伝図の研究』汲古書院2007
徳田武「玉蘭斎歌川貞秀の二十四孝絵」『江戸風雅』3、2010
宇野瑞木「蓑笠姿の孟宗―五山僧による二十四孝受容とその絵画化をめぐって―」『東方學』東方學會2011.7
宇野瑞木『孝の風景―説話表象文化論序説』勉誠出版2016