2号連続でご紹介している「色絵 人物船遊文 皿」。今月は文様に注目して見ていきます。
伊万里焼の文様は初期の頃から中国画譜からの影響が示唆されてきました。特に『八種画譜』の『五言唐詩画譜』から図版を引用していることは既に指摘されています。『八種画譜』とは万暦年間(1573~1619)後期から天啓年間(1621~27)に出版されたそれぞれ独立した八種類の画譜のこと。そのうちのひとつである『五言唐詩画譜』には50首の唐詩と、それらを可視化した明快な挿図が収録されています。
「色絵 人物船遊文 皿」も構図は『五言唐詩画譜』の中の「送人遊湖南」からの取材が考えられます。「送人遊湖南」は晩唐の詩人である杜牧(803~852)の「送薛種遊湖南」を原題とする詩。晩唐の政治的混乱期における自身の身の上を、前漢(紀元前206~8)の文帝期(紀元前180~157)の政治家である賈誼(かぎ/紀元前200~168)の不遇な命運に共感した情感のある詩です。『五言唐詩画譜』の中では「賈傅松醪酒、秋來美更香。憐君片雲思、一棹去瀟湘」の詩中に登場する「松醪酒」は松と酒瓶を手に持つ童子、酒屋の旗で表現し、「憐君片雲思」ではたなびく雲を、「一棹去瀟湘」は湖上の舟と別れの挨拶を交わす人物達によってあらわしています。元の詩句からは繊細な情緒が読み取れますが、挿図からは細やかな機微は感じとれません。詩中の単語を丹念に配置しており、非常に説明的です。その一方で、ポイントとなるモチーフさえ押さえれば詩中の情景を把握できるわかりやすい挿図であるために、明末期の詩画に熱中する市民層に浸透していきました。
清末まで重版を繰り返した『八種画譜』は、どうやら1630年までには日本にも舶来したようです。我が国においても中国画の教科書として、また絵手本として翻刻され、広く読者を得た他、江戸時代の画家や伊万里焼の文様に使用されました。
本作と画譜に描かれた絵を比較していくと、画面右に湾曲した樹下に浮かぶ舟やそこに乗る船頭、左上に遠景が描かれるといった基本的な構図には共通性が見られます。しかし、松が桃とおぼしき樹に変わっていたり、酒瓶を手にした童子が消失していたり、舟に乗る人物が増えていたりと、大小様々なモチーフの改変が確認できます。もはや、詩の主題である別れを偲ぶ二人の人物すらも見当たりません。以下は両者のモチーフの相違をまとめた表です。
以上のように、丸写しするのではなく、構図は踏襲しながらモチーフの変更や省略、追加等が確認できます。また、『唐詩五言画譜』の主題である唐詩を見事に無視しており、「詩を理解するための挿図」という本来の性格から離れ、絵手本として使用されていたことが窺えます。
では、図案の再構成は一体誰が、何のために行ったのでしょう。本稿では本作が作られた17世紀後半という時代に注目して考えてみたいと思います。この頃は伊万里焼の海外輸出が最も盛んな時期であり、海外からの求めに応じて白い素地に赤を主体とした絵付けを施す柿右衛門様式が成立します。前号でも紹介しましたが、本作は西欧向けのディナーセットの一部と考えられ、輸出を意識して作られたものとみえます。西欧好みかつ東洋趣味を反映するために、画譜からモチーフを拝借し、かつ赤の絵付けを施すために、緑の絵具を使用する松から赤い桃の花に変更したのではないでしょうか。さらに、数枚かつ異なる大きさの皿に描くことを考えると、描くモチーフを少なくすることで、複数枚生産する際の手間を省いたことも考えられそうです。
じつは本作の他にも同時代の作例で『唐詩五言画譜』の挿図を参照していることが窺えるものが確認されています。そこでは、本作と同様に、基本的な構図を踏襲しながらモチーフの足し引きが行われ、湖に舟を浮かべて蓮を採る女性の図に、原画には描かれていなかった男性が足されていることから、周茂叔「愛蓮説」を表現したと考えられています。
本作も桃と舟の特徴的なモチーフを捉えると、陶淵明『桃花源記』を思い浮かべることもできそうです。ただし人物の数や詳細なシチュエーションは一致しないため、あくまでも仮説の域を出ません。いずれにせよ有田の陶工がオリジナルに漢籍や中国の故事を取り入れるというよりは、中国文化に明るい人物が関わったことが考えられそうです。
加えて、有田の陶工が当時貴重書であった舶載漢籍の原本を手元に置いて作業したとは考えにくいのです。特に『八種画譜』 の初翻刻は寛永7年(1630)と言われていますが現存せず、寛文12年(1672)に京都の唐本屋清兵衛他によるものが確実とされています。本作は17世紀後半の作例ですから、図案を作成するタイミングによっては翻刻版ではなく、舶来した明本を元にした可能性もあるでしょう。
また、モチーフを足し引きした上で紙の平面から皿の曲面に再構成してなお、原画の構図を巧みに保っていることから、文様をデザインする専門の絵師の存在があったのではと推察します。
伊万里焼の文様デザインについては未だに謎が多い部分ではありますが、それ以上に当時の漢籍や和刻本が一度にどれくらい刷られて、どういった流通経路を辿ったのかは判然としません。また、漢籍については長崎に到着したのち、書物改によって逐一検閲されて、基本的には唐本屋といった仲介業者の手に渡るなどしてから購入者の手元に届きます。つまり舶載年に全ての書物が消費された訳ではなく、日本に入ってきた後の道を辿ることの難しさを感じます。
本稿では伊万里焼の文様について現段階で影響関係が窺える画譜の性格や内容、漢籍舶載の状況などを複合的に考察しましたが、今後は考古学的な観点も加えつつ、引き続き深く考えていければと思います。
(小西)
謝辞:本稿執筆にあたり、東京藝術大学附属図書館より画像をお借りしました。記して御礼申し上げます。
【参考文献】
図書
・市野澤寅雄『漢詩大系第14巻 杜牧』集英社1907
・大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』同朋舎1984
・町田市立国際版画美術館 編集発行『開館三周年記念 近世日本絵画と画譜・絵手本展<Ⅱ>―銘がを生んだ版画―』1990
・大庭脩『漢籍輸入の文化史―聖徳太子から吉宗へ―』研文出版 1997
・前田正明 櫻庭美咲『ヨーロッパ宮廷陶磁の世界』角川書店2006
・大橋康二『日本磁器ヨーロッパ輸出350周年記念 パリに咲いた古伊万里の華』日本経済新聞社2009
・大橋康二 鈴田由紀夫 古橋千明編集『柿右衛門様式磁器調査報告書 欧州篇』九州産業大学 柿右衛門様式陶芸研究センター柿右衛門様式磁器調査委員会2009
・小林宏光『中国版画史論』勉誠出版2017
論文
・鶴田武良「日本画論年表」(『文化』33号 pp.87~124)東北大学文学会1969
荒川正明「肥前磁器と『八種画譜』―古九谷様式における人物意匠の背景―」(『出光美術館研究紀要』pp.161-189)出光美術館1999
・山本紗英子「柿右衛門様式に描かれた唐様人物文様の世界」(『九州産業大学柿右衛門様式陶芸研究センター論集 第5号』pp.205-234)九州産業大学柿右衛門様式陶芸研究センター2009
デジタル資料
黄鳳池 編『八種画譜』東京藝術大学附属図書館所蔵版(2021年8月29日最終閲覧)(https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100266458/viewer/2)