学芸の小部屋

2022年4月号
「第1回:鍋島焼の墨弾き」

 陽気に満ちた春らしい日が続いています。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 さて、当館では本日4月1日(金)より『開館35周年記念特別展 鍋島焼―200年の軌跡―』が開幕いたしました。鍋島焼とは、江戸時代に肥前国佐賀地方を治めた佐賀鍋島藩が、徳川将軍家への献上や、大名家・公家などへの贈答として用いた磁器のこと。今回の展覧会では、盛期にあたる17世紀末期から18世紀初頭にかけての作品を中心に、技術や技法に注目しながら約80点を展示しております。今月の「学芸の小部屋」では、鍋島焼でしばしば用いられる「墨弾き(すみはじき)」という技法に着目して出展作品の一部をご紹介いたします。


 今回の展覧会で、とくに広範囲に渡って墨弾き技法を用いた作品が、「染付 宝尽文 皿」(図1)。金嚢や宝珠、隠れ蓑、隠れ笠、宝剣、草子、笙などの宝物を、踊るような揺蕩うような曲線を描きながら配置しています。上部を余白としたのに対し、画面の約3分の2を埋め尽くすのは、青海波文(せいがいはもん)と呼ばれる波文様。そして、この青海波文を表現している技法が墨弾きです(図2)。



 墨弾きとは、白抜きの線をあらわす技法のこと。手順としては、まず、白くしたい部分を墨で線描きをすることでコーティングしておきます(図3の①)。そうすると、次に染付の絵具である呉須(ごすがんりょう)で塗りつぶしをしても、墨でコーティングされた部分には絵具は載りません(図3の②)。焼成すると墨は焼け飛びますが、絵具は残るため、白抜きとなります(図3の③)。なお、鍋島焼では③の焼成は、本焼き焼成(釉薬を掛けて1300度以上で焼成する段階)とは別に行われると言われ、その場合は焼成の回数が増えるので、より手間暇が掛けられていることになります。

 墨弾きは、鍋島焼の技術的な基本となる伊万里焼では1650年代から登場する技法です。それ以前は、先の尖った道具で絵具を掻き落とすなどして白い線を表現していましたが、墨弾きの開始により、より滑らかな白線を表現したり、墨弾きの輪郭線を境に染付の濃淡を使い分けたりできるようになるなど、表現の幅が格段に広がっていきました。

 伊万里焼に遅れて、鍋島焼が製作されはじめるのは1660年代頃のこと。鍋島焼を焼成した代表的な窯は大川内山(現・伊万里市)の御用窯(ごようがま/註)ですが、それ以前にも1650年代後半から1670年代にかけて稼働したと推定されている日峯社下窯(にっぽうしゃしたかま)が存在していました。日峯社下窯跡からは、墨弾きによって紗綾形文(さやがたもん)を表現した小片が出土しており、鍋島焼においても早くから墨弾きの技法が取り入れられていたことがうかがえます。

 ただし、前期鍋島の段階では、染付の濃淡で細かな文様を表現する場合が多く見られます(図4)。墨弾きと見分けるには、輪郭線の有無がポイント。墨弾きでは輪郭線がありませんが、濃淡で表現する場合は輪郭線を引いてから、まずは濃い部分の濃(だみ)を、続いて薄濃(うすだみ)を施しています。また、前期鍋島には墨弾きによる地文様と染付の濃淡による地文様が混在する作例も(図5)。様式の模索段階であった前期鍋島においては、墨弾きはあくまで文様表現の一手法として選択されていたと考えられます。



 1690年代頃から1730年代にかけて、鍋島様式が固まって盛期を迎えると、冒頭の「染付 宝尽文 皿」のように、墨弾きを使用した作品が多く見られるようになってきます。今展で出展している盛期鍋島で墨弾きを使用している作品をいくつか挙げてみましょう(表1)。



 いずれの作品も、背景やモチーフの一部分などとして、さりげなく墨弾きの技法を用いています。手間を掛けて細部まで緻密に作り上げるのは鍋島焼の真骨頂ですが、墨弾きによる文様表現はそれを端的に示す好例と言えるでしょう。

 さらに、全体の構成にも注目してみましょう。鍋島焼の文様構成について、先行研究ではしばしば「絵画調」と、「模様調」とに大別され、前期の「模様調」から、盛期や後期の「絵画調」に至ると指摘されてきました。「絵画調」は絵画や絵手本類の一部を切り取ってきたような構成を取るもの、「模様調」とは、唐花文様や幾何学文様を配置して画面を埋める構成を指します。この2つのパターンに全ての鍋島焼のデザインが収まるわけではありませんが、表1に掲げた中では、「色絵 毘沙門亀甲文 皿」や「青磁染付 団花文 皿」が模様調、「染付 花籠文 皿」や「染付 椿文 輪花皿」が絵画調として挙げられるでしょう。

 模様調の作例では、主題である毘沙門亀甲文の一部に墨弾きによる花文を組み込んだり(図6)、不規則に配置した団花文と、青磁釉や白地、そして墨弾きの青海波文による縞文が妙味を織り成したりと(図7)、デザインを引き立たせるように青海波文が用いられています。また、絵画調の作例の場合でも、花籠文の背景を大胆にも斜めに区切り、片身替わりのように余白と墨弾きによる四方襷文をあらわしてみたり(図8)、椿の周囲を額縁のように墨弾きによる如意雲文と火焔文で飾ってみたりと(図9)、ひと工夫している様子が見てとれます。盛期鍋島における墨弾きによる文様は、複雑な模様調を構成し、主題を引き立てる名脇役として、あるいは、絵画調でもひと捻り加えた画面を構成するための工夫として機能していると言えます。



 盛期鍋島の時代を過ぎ、18世紀半ば以降になると、墨弾き技法が用いられることは少なくなっていくようです。使用された場合でも、盛期鍋島ほどの線描の安定性は見られません。手間暇の問題と、盛期を過ぎると模様調のタイプが減少し、絵画調であっても、モチーフをストレートに嵌め込んだ作例が増えていくことが要因と考えられます。ちなみに、安永3年(1774)には、十代将軍徳川家治の好みを反映した十二通りの器形や文様が幕府側から提示されますが、その一群は明らかにすっきりとした絵画調を指向していると言えるでしょう(表2)。



 以上のように、鍋島焼における墨弾きの技法は、前期の時代からはじまり、盛期において代表的な技法のひとつに昇華されました。墨弾き技法による精緻な文様表現と、それを存分に活用した画面の構成力は、鍋島焼の大きな見どころになっています。細部に息づく職人の技術力やデザインの妙にもご注目いただければ幸いです。

(黒沢)



(註)御用窯は、平成15年(2003)に、藩役宅跡や御細工場跡等とともに「大川内鍋島藩窯」として国史跡指定を受けている。

【参考文献】
・鍋島藩窯調査委員会編『鍋島藩窯の研究』平安堂1954
・矢部良明編『日本陶磁全集25 鍋島』中央公論社1976
・鍋島藩窯研究会編『大川内鍋島藩窯跡発掘調査概報』同1978
・矢部良明編『日本の美術176 鍋島』至文堂1981
・鍋島藩窯研究会『鍋島藩窯―出土陶磁にみる技と美の変遷―』同2002
・佐賀県立九州陶磁文化館編『古伊万里の見方 シリーズ3 装飾』同2006
・佐賀県立九州陶磁文化館編『将軍家への献上 鍋島―日本磁器の最高峰―』同2006
・サントリー美術館編『誇り高きデザイン 鍋島』同2010
・近世陶磁研究会『江戸時代に佐賀藩が特別誂えした鍋島焼の特質』同2022


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