関東では梅雨の晴間が恋しいこの頃です。皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、当館では7月11日より『古伊万里から見る江戸の食展』(〜9月29日(日))を開催予定です。来たる夏に向けて、涼を運ぶ染付のうつわを中心に、伊万里焼と江戸時代の食文化との関わりをご紹介いたします。上記展覧会に出展予定の「染付 蛸唐草松竹梅文 皿」(図1)も、当時の食文化が垣間見える貴重な1枚です。
本作の見込には、環状に配された松竹梅文(図2①)。周囲には半裁の菊花文(図2②)が帯状にめぐり、さらにその周囲は蛸唐草文(図2③)で埋め尽くされています。「蛸唐草文(たこからくさもん)」は蔓と葉から成る唐草文の一種で、大小の渦に細かな葉が付く様子が蛸の足に見えることから、その名が通称されるようになりました。伊万里焼では18世紀以降に急激に増加する文様であり、本作のような描き方は19世紀頃に多く見られるもの。見込の環状松竹梅文、半裁の菊花文との組み合わせから見ても、当時の伊万里焼の染付皿の典型とも言うべき作品です。
そして、この典型的な染付大皿の特筆すべき点は裏面にあります。裏文様の花唐草文と、高台内の「大明成化年製」銘はやはり定番と言うべきものですが(図3)、裏銘の脇に彫られたマークが重要です(図4)。
このような彫り痕は「釘書き(くぎがき)」と呼ばれ、うつわが焼き上がった後の釉面に、先端の尖った道具で彫り付けられたもの。皿や碗、瓶などにしばしば見られ、文字や数字、そして屋号と思われる記号などが示されています。本作の場合は、曲尺(かねじゃく)の形の下に漢字の「万」が組み合わせられた、「かねまん」と呼ばれる屋号が点刻されています。
屋号の釘書きは、そのうつわの所有者(店)を示すものでしょう。しかし、店内で使用するうつわであれば、わざわざ手間を掛けて裏面に屋号を彫る必要はありません。店の外で利用する、つまり料理の仕出し(出前)の際のうつわとして使うために彫られたものと考えられます。
江戸時代後期は食文化が活況を迎えた時代とされます。自宅ではもちろん、とくに江戸や京、大坂などでは屋台や一膳飯屋などの手軽なものから、高級料理屋まで様々な場で食事が楽しめるようになりました。本作のような唐草文様の入った陶磁器製の食器も、様々な場面で使用されていた様子が浮世絵や挿絵などからうかがえます(図5)。
そのような中で、客が料理屋を訪れる形態のみならず、料理が客の元へ届けられる仕出しの業態も発展しました。江戸の名物を漢詩で記した『江戸名物誌』初編(方外道人/1836序)には、深川の金麩羅(きんぷら/衣に卵を混ぜた高級天麩羅)や、高級料理屋として知られる八百善の仕出しが紹介されるほか、吉原に仕出し専門の寿司屋である「通鮓(かよいすし)」の店がこの頃できたことが挿絵入りで取り上げられています(図6)。挿絵を確認すると、仕出しの際の容器は漆器と思しき重箱が使われたようですが、店の前の人物は積み上げた寿司を大皿に入れて持っており、運搬には大皿も活躍したことがうかがえます。
上記のような寿司屋のほかにも、吉原には台屋と呼ばれる仕出し料理屋が出入りしていました。その料理を運ぶ容器にも、染付磁器や漆器と推測されるうつわが使用されていたことが浮世絵から確認できます(図7)。
また、一大娯楽の芝居見物にも、仕出し料理はつきものでした。江戸時代の江戸や京、大坂の風習を書き記した『守貞謾稿』(喜田川守貞/1853序)によれば、客の好みや座席の等級によって一様ではないと断りながらも、席につくとすぐに煙草と茶、番付(歌舞伎の番組を記したもの)が届けられ、次に菓子、次に口取り肴、次に刺身またはほかの肴、次に煮物、次に中飯(昼食/握り飯やおかずの入った重箱)、次に寿司、最後に水菓子というのが通例であったと言います。たしかに、芝居小屋の内部の景色を描いた浮世絵を見ると、そこかしこで様々な料理が広げられ、中には染付磁器とみえる食器も少なくありません(図8)。こうした料理は茶屋から運ばれたもので、その容器に染付磁器が活躍していた様子がうかがえます。
食文化の花開いた江戸時代、仕出しというのも重要な業態のひとつでした。屋号が刻まれた「染付 蛸唐草松竹梅文 皿」も、そのような場面で使用されたものでしょう。料理を運ぶため、そして食べるために不可欠な食器は、江戸の食文化を陰から支えた存在でした。今展では、そのような“江戸の食の縁の下の力持ち”である伊万里焼を、当時の食文化とともにご紹介いたします。どんな場面で使われたのか、どんな料理が盛られたのか、イメージしながらお楽しみいただければ幸いです。
(黒沢)
【主な参考文献】
・江戸遺跡研究会編『図説江戸考古学研究事典』柏書房2001
・原田信男『江戸の料理と食生活』小学館2004
・松下幸子『錦絵が語る江戸の食』遊子館2009
・美濃部達也「内藤町遺跡Ⅲにおける土地利用の実態と遺物の諸様相」『内藤町遺跡Ⅲ』新宿区生涯学習財団2001